第19話『怖がられると、思っていた』
「……壊しちゃったら、どうしよう」
掲げた桁橋の重みの中で、リリーは固まったまま動けずにいた。
いつも考える前に動く子が。やってみてから笑う子が。
今は一歩も踏み出せずにいる。
崩れた橋、流された橋桁、遠い鐘楼の記憶——それらが、彼女の手を重くしているのが見ているこちらにも伝わってきた。
「リリーさん!」
私は、できるだけ、いつもの調子で声をかけた。
「あなたは、いつもちょっとパチッとしただけで川の魚を全部気絶させる人です。その気になれば、橋桁くらい対岸まで軽々と運べてしまうでしょう」
「でも……それでもし……」
「もし、を心配して動けなくなるのは、あなたらしくありません!」
「……ねえ、リリー」
ふと、ネルがのんびりと口を開いた。橋桁を掲げたリリーのすぐそばで。
「もし壊してもいいよ。また作ればいい。それに——壊れたって、わたしが、その場で全部寝かせてあげるから。誰もけがしないように」
「……橋は寝ないってば」
「うん。でも、リリーが安心するなら」
リリーが、ぷっとふきだした。
張りつめていた肩から、ふっと力が抜ける。
「……もー、なにそれ。へんなの」
「ふふ。リリーさんなら、だいじょうぶですよ」シルヴィアも、にこにこと言い添える。
「それに」と、私は付け加えた。「もし本当に壊しても、私が、村長さんに頭を下げに行きます。段取りも、もう一度組み直します。後始末なら、いくらでも引き受けますよ。——だから、あなたは、思いきりやってください」
「……クロエが、後始末してくれんの?」
「ええ。あなたの後始末をするのは、もう慣れています」
「あはは、それもそっか!」
リリーが、ようやく、いつもの調子で笑った。
三人の声に、背中を押されるように。
リリーは、もう一度、橋桁を握り直した。さっきより、ずっと、落ち着いた手つきで。
「……よし。いくよ」
リリーが息を吸った。
今度は雷を使わなかった。手のひらに火花を散らすこともなく、ただ自分の体だけを使って——掲げた桁橋を、ゆっくりと対岸へと差し渡していく。
慎重に。ていねいに。まるで壊れモノのガラス細工でも扱うみたいに。
あれだけの怪力を、これほど繊細に使うリリーを私は初めて見た。いつもは加減を知らない彼女が、今は、一寸ずつ力を測りながら動いている。
見守る村人は、誰も言葉を発しなかった。固唾をのんで、リリーの一挙一動を見つめている。私も知らず知らず息を詰めていた。子どもたちでさえ、しんと静かになって、その様子を見守っている。
桁橋が、谷の上をゆっくりと進んでいく。途中、風にあおられて、わずかに揺れた。村人の誰かがヒッと息をのむ。
けれど、リリーは慌てなかった。揺れを両手でそっと吸い取るように受け止めて、また慎重に動かしは始める。汗が彼女のこめかみを伝っていた。あの何も恐れずに突っ走る子が、今はこれ以上ないほど丁寧に。
桁橋の先が、岸の岩場にそっと届いた。
かちり、とピタリの位置に収まる。
――架かった。
一本目が渡ると、あとは早かった。リリーは次々と桁橋を渡し、村人が組んだ板を力を込めすぎないよう支えながら固定していく。半日もかからなかった。村人が何日もかかると言った難工事が、彼女の手の中でみるみる形になっていく。
そうして——谷に新しい橋が架かった。
古いものより、よほど頑丈そうな立派な橋が。
「……できた」
リリーが、ぽつりと言った。
自分の手のひらと、架かったばかりの橋とを、交互に見比べている。信じられないという顔で。
壊さなかった。吹き飛ばさなかった。炭にもしなかった。
ただ——直した。架けた。誰のことも、傷つけずに。
◇
次の瞬間、リリーの肩が、わずかに強張った。
私にはその理由が分かった。
怖がられる、と思ったのだ。
これだけの力をまざまざと見せてしまった。鐘楼を吹き飛ばした時の様に、城壁を炭にした時の様に。きっとまた、あの目で見られる。危ないから、離れていろ、と。
リリーは、おそるおそる、村人のほうを振り返った。身構えるように肩をすくめて。
——けれど。
谷に響いたのは、悲鳴でも、後ずさる足音でもなかった。
「うおおおっ、すげえ!」
「架かった! 橋が架かったぞ!」
わあっ、と歓声が爆発した。
村人たちが両手を打ち鳴らし、口々に叫んでいる。子どもたちが、われ先にとリリーに駆け寄って、その腕に、足にしがみついた。
「リリー姉ちゃん、すっげー!」
「かっこいい!」
ニコが興奮して飛び跳ね、ミナが「お姉ちゃん、すごいの!」とキラキラした目で見上げている。
あの、無骨な村長のゴルドまでが、太い腕でリリーの肩をバンバンと叩いた。
「たいしたもんだ! あんたのおかげで村が助かった! ……ありがとうよ、嬢ちゃん」
ありがとう。
その言葉に、リリーは、ぽかんと口を開けた。
「えっ……あたし、こわく、ないの……?」
思わず、というふうに、こぼれた言葉だった。
「こわい? なんでだよ!」ニコが、きょとんと首をかしげる。「こんなすごい橋、架けてくれたのに!」
「そうだそうだ!」「お嬢さん! あんた、村の恩人だよ!」
口々に感謝を浴びせられて、リリーは何度も瞬きをした。
無理もなかった。彼女にとって、自分の力はずっと「謝るもの」だったのだ。何かを壊すたびに「ごめんなさい」と頭を下げ、危ないからと遠ざけられ、最後には国を出された。力を使えば使うほど、人は離れていく。それが、彼女の知っている限りの決まり事だった。
なのに、ここでは逆だった。
力を使ったら、人が寄ってくる。
離れるどころか、しがみついてくる。
怖がるどころか、笑ってくれる。
怖がられると思っていた力で、笑顔を向けられている。
離れていけと言われるはずの力で、しがみつかれている。
彼女の中で、何かが上手く噛み合わないでいるのが見て取れた。
ミナが、リリーのスカートをくいくいと引っぱった。
「お姉ちゃん、つよくて、やさしいの。だから、こわくないの」
強くて、優しい。だから――怖くない。
子どもの真っ直ぐな理屈だった。けれど、その言葉はリリーの胸のいちばん柔らかいところに、真っ直ぐ届いたようだった。
「……こわく、ないんだ」
もう一度、確かめるように呟いて。
リリーは、しがみつく子どもたちを見下ろして、くしゃっと泣き笑いのような顔をした。
◇
その日の帰り道、リリーはいつものリリーに戻っていた。
「いやー、橋架けるの楽しかったなー! また落ちたら、あたしに言ってよね!」
子どもたちに手を振り、上機嫌で坂道を上っていく。ケガも、失敗もなかった。村は喜び、橋は架かった。何もかもうまくいった一日だった。
——だから、誰も気づかなかった。
その夜の報告会のお茶の席。
いつもなら、誰より大きな声で「今日のあたし、すごかったでしょ!」と自慢するはずのリリーが、その夜はめずらしく静かだった。
焼き菓子をゆっくりとかじりながら。湯気の向こうを、どこか遠くを見るような目で眺めている。
リリーさん、と声をかけようとして——私はやめた。
悲しい静けさではなかったから。むしろ、何か大きなものを、そっと胸の中で確かめているような、そんな静けさだった。
怖がられない場所があった。
彼女は今日、それを生まれて初めて知ったのかもしれない。
私は、何も言わずに彼女の湯呑みにお茶をもう一杯注いだ。
リリーは、「……ありがと」と小さく笑った。
いつもより、ずっと静かな声で。




