第18話『橋が落ちても任せてください!』
三日続いた大雨が、ようやく上がった朝だった。
久しぶりの晴れ間に洗濯物を干していると、丘の下からニコが転がるように駆けてきた。
「たいへんだ! 橋が落ちた!!」
「橋、ですか?」
「村の外につながる橋だよ! 夕べの水で真ん中からどばーって!」
息を切らすニコから事情を聞くうち、私は事の大きさを理解した。
カムナ村と外の土地をつなぐ道は谷にかかった一本の橋だけ。その橋が増水した川に押し流されて、落ちてしまったのだという。
大事というほどではない。村は元から自給自足でやっている。けれど、橋がなければ行商も来られない。塩や薬が切れても、町へは買い出しに行けない。もし急な病人が出ても、町の医者のところへは運べない。じわじわと暮らしの首が絞まる。
「父ちゃんたちが何とかしようとしてるけど……あの谷に橋を架けるのは、何日もかかるって……」
ニコはいつもの強がりも忘れて、心配そうに眉を寄せていた。橋がないと町から薬も来ないし、行商のおじさんも来られない——子どもなりに事の重さは分かっているらしい。
「マレーナばあちゃんも薬草がもうすぐ切れるって困ってた。山の向こうのやつは町でしか買えないやつだから」
なるほど、と私はうなずいた。村の暮らしは、細い一本の橋に思っていた以上にぶら下がっている。
困り果てた顔のニコを見て、私は振り返った。
「リリーさん」
「よっしゃ、聞こえてた!」
もう腕まくりをしている。
◇
四人で現場へ向かった。
谷は思っていたより深かった。底を流れる川は、まだ雨の濁りを残してごうごうと音を立てている。両岸を結んでいたはずの木の橋は無残にも中央から折れ、半分が濁流に飲まれて消えていた。残った桁橋もいつ崩れてもおかしくない。
「うわ、けっこう派手にいったなー」
リリーが崖っぷちから身を乗り出して、谷底を覗き込む。
「リリーさん、落ちないでください。あなたが落ちたら橋より先にあなたを引き上げる羽目になります」
「だいじょうぶだって!」
すでに村人が何人か集まって、難しい顔で相談していた。村長のゴルドも太い腕を組んで唸っている。
「材木を切り出して組み直すしかねえが……あの谷幅だ。桁橋を渡すだけで何日かかるか」
「人手も足りねえな」
「だいたい谷の真ん中に足場を組めねえんじゃあ、どうにもならん。前の橋だって三年がかりで架けたんだ」
大人たちの会話を聞きながら、私は素早く頭の中で算段した。必要な材木の量、運ぶ人手、組む手順。どれをとっても、村人だけでは相当な日数がかかる。何より谷が深すぎて足場が組めない。そこが、いちばんの難所だった。
——けれど、私たちには、ひとり、規格外の戦力がいる。
足場が組めないなら、足場なしで桁橋を渡せる者がいれば良い。重い丸太を、対岸まで、ひと息に。
そんな芸当ができる人間は普通はいない。けれど――ここにはいる。
「ゴルドさん」
私は村長に声をかけた。
「材木さえ用意できれば、桁橋を渡す力仕事はこちらで引き受けます」
「引き受けるって……あんたら、メイドだろう。あの谷に、どうやって——」
「はい! あたしがやります!!」
リリーが、ぴしっと手を挙げた。明るい声が谷に響く。
「力仕事なら任せて! 重い橋桁くらい、ひょいって渡してみせるから!」
村人たちが顔を見合わせた。
その目に、一瞬、奇妙な間が生まれたのを私は見逃さなかった。
——あの屋敷のメイドが。城壁を炭にしたとか、両軍を眠らせたとか、噂されている、あの。
感謝より先に、ほんのわずか不安がよぎる。そういう間だった。誰かが言ったわけではない。けれど、橋を「直す」のに橋を吹き飛ばしかねない力を借りることへの躊躇い。それは薄く、確かにそこにあった。
「……まあ、ほかに手もねえしな」
ゴルドがぼそりと言って、その場を収めた。村人たちもそれ以上は何も言わなかった。
けれど。
その一瞬の間に、誰より早く気づいたのは、ほかでもない、リリーだった。
明るく手を挙げたまま、その表情が、ほんのわずか——気付くか気付かれないかの翳りがあった。
すぐに、いつもの笑顔に戻ったけれど。
私は、いつか川辺で聞いたリリーの言葉を思い出していた。鐘楼を吹き飛ばした時は誰も笑ってくれなかった。
——危ないから、動くな、触るな。
この明るい子がずっと向けられてきた目。それと同じ気配を、彼女は、たった今、敏感に嗅ぎ取ってしまったのだ。
◇
その日は、材木の切り出しと運搬で終わった。
リリーは相変わらず元気に働いた。大人が二人がかりで運ぶ丸太をひょいと肩に担ぎ、何往復もする。村人が目を丸くするほどの働きぶりだった。シルヴィアは、怪我をした村人の手当てをし、ついでに切り出した木の切り株から芽が出そうになるのを「あらあら、今は伸びないでくださいね」とこっそり押さえていた。ネルは——例によって、運んだ丸太の上で昼寝をして、リリーに「枕じゃないって!」と転がされていた。
「リリー姉ちゃん、すげー!!」
子どもたちは、無邪気にはしゃいでいる。けれど、その後ろで、大人たちが感心とほんの少しの気後れの混じった顔でリリーを見ていた。
夜、屋敷に戻ってからも、リリーはいつもより少しだけ口数が少なかった。
お茶の時間、めずらしく焼き菓子のおかわりもせず、ぼんやりと湯気を見ている。シルヴィアが「リリーさん、お疲れですか?」と気遣うと、「んー、ちょっとね」と、らしくない曖昧な返事をした。
ネルが、ふと湯呑みから顔を上げて、リリーをじっと見た。
「……リリー。明日、いやなら、やめてもいいんだよ?」
「えっ……やだよ、やるって決めたもん!」
「……うん。でも、こわかったら、わたしが橋を寝かせてあげる」
「橋は寝ないでしょ」
リリーは笑ったけれど、その笑い方は、いつもより少しほっとしたようでもあった。ネルの的外れな優しさは、ときどき、誰かの肩の力をそっと抜く。
明日いよいよ橋桁を渡す。
リリーの力があれば、難工事も半日で片づくだろう。それくらいの力が彼女にはある。
——あるからこそ、なのかもしれない。
私は何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ濃く淹れたお茶を彼女の前にそっと置いた。
◇
翌朝。
谷には村人が総出で集まっていた。子どもたちも固唾をのんで見守っている。ニコもミナも、一番前で目をキラキラさせていた。リリー姉ちゃんが橋を直すところを、ひと目見ようというのだ。
切り出した太い橋桁。これを対岸まで渡し組み上げる。村人だけなら滑車を組んで何日もかかる作業だ。それをリリーがひとりで持ち上げて渡す。
「リリーさん、準備はいいですか」
「……うん!」
リリーが橋桁の前に立った。両手をかけぐっと持ち上げる。丸太は、彼女の手の中で羽のように軽々と持ち上がった。歓声があがる。
あとは、これを対岸へ。
リリーが力を込めようと、息を吸った——その瞬間だった。
彼女の手が、ふと、止まった。
いつも考える前に動く子が。やってみてから考える子が。
桁橋を掲げたまま、めずらしく動けずにいる。
その横顔を私は見た。
崩れ落ちた橋。流された橋桁。吹き飛んだ鐘楼の遠い記憶。
それらが、今、彼女の中で重なっているのが見えるようだった。
リリーは掲げた橋桁の重みの中で、ぽつりとつぶやいた。
「……壊しちゃったら、どうしよう」




