第14話『迷子の山羊を追いかけて』
その日、息を切らして屋敷に駆け込んできたのは、ニコだった。
「たいへんだ! 山羊が逃げた!」
「山羊?」
「うちで、いちばん乳の出るやつ! 柵を蹴破って、森のほうに行っちゃって……父ちゃんが探してるけど見つからなくて……」
森に入った家畜を、村人だけで探すのは骨が折れる。まして、乳のよく出る大事な山羊ともなれば、村にとっては小さくない損失だ。困り果てた顔でニコは私たちを見上げた。
「あの……手伝って、ほしいの……お礼に、なにかするから!」
強がりのこの子が頼ってきた。それだけで断る理由はなかった。
「いいですよ。ちょうど、手の空いている者がいますから」
「よっしゃ、山羊だな! あたし、足には自信あるよ!」
リリーが待ってましたとばかりに腕まくりをする。
外で体を動かせるとなれば、この人ほど頼りになる戦力もいない。
「……わたしも、行く」
意外なことに、そう言ったのはネルだった。
「あなたが? めずらしいですね。歩くのは嫌いでしょう」
「……山羊、ちょっと気になる。それに、暇だし」
暇だから森へ山羊を追いに行く、という発想が私には理解しがたい。
けれど、ネルが自分から動くというなら止める理由もない。
「では、シルヴィアさんは台所をお願いします。私は――」
言いかけて、私は二人を見た。
暴走しがちなリリーと、マイペースなネル。この二人だけを森へ送り出す。
——胃が、すでに痛い。
「……私も、行きます。二人だけでは、何をしでかすか分かりませんから」
◇
丘を越え森の縁へ。木立の中は、ひんやりと薄暗く、コケのにおいがした。
「やぎー! どこだー!」
リリーが両手を口に当てて大声を出す。当然、山羊が返事をするはずもない。
「リリーさん、山羊は呼んでも来ません」
「えー、犬は来るのに」
「山羊は犬ではありません」
ネルはというと、森に入って早々、手近な切り株に腰を下ろしていた。
「……ちょっと、休憩」
「まだ百歩も歩いていませんが」
「……森の空気、吸ってからのほうがよく見える」
「吸う前から目は開けてください」
追跡隊として、これほど頼りない二人もいない。
「ねえネル、ぼーっとしてないで、こっち手伝ってよ」とリリーが手招きする。
「……わたしは、頭脳労働」
「いま完全に寝てたじゃん!」
「……寝ながら、考えてた。山羊の気持ち」
「ぜったい嘘だ!」
言い合う二人をよそに、私は、ため息をつきながら地面に目を凝らした。
——と、湿った土の上に、点々と二つに割れたひづめの跡が続いていた。
「足跡です。こっちですね」
「おっ、さすがクロエ! 段取り上手!」
「追跡は段取りではありませんが、まあ、いいでしょう」
ひづめの跡をたどって、私たちは森の奥へと進んでいった。リリーは元気よく先頭を行き、ネルはその後ろを、殿というよりただ遅れているという感じでトボトボついてくる。何度か「……おんぶ」と言いかけては、私にじろりと睨まれて、口をつぐんだ。
◇
山羊は、思いのほか、手ごわかった。
茂みの向こうに白い影を見つけて、リリーが「いたっ!」と飛びかかる。が、山羊はひらりと身をかわし、岩を飛び越えて逃げていく。
「こいつ、すばしっこい! 待てって!」
「リリーさん、追い詰めようとすると、かえって——」
言い終わる前に、リリーが勢いよく追いかける。
そして、山羊がさらに奥へ逃げ、結局振り出しに戻った。
これをもう三度も繰り返している。山羊もリリーも、無駄に元気だ。
その間、ネルは木陰でずっと山羊を眺めていた。
「……あの子、こわがってる。だから、逃げる」
「怖がっている?」
「うん。森に入って、迷子になって、心細くて……だから、追われるとよけいパニックになる」
ネルはのっそりと立ち上がった。眠たげな半目を山羊のほうへ向ける。
「リリー、もう追わなくていい。……ちょっと、待ってて」
そして、暴れる山羊のほうへ、とことこと、まっすぐ歩いていった。逃げる素振りを見せる山羊に、ネルは両手をゆっくりと差し出す。
「……どうどう。だいじょうぶ。だれも、とって食わないよ」
低い、のんびりした声だった。
不思議なことに、あれほど興奮していた山羊が、だんだん、足を止めた。荒かった息が、すうっと、おさまっていく。ネルがそっと首筋に触れると、山羊はまるで眠る前みたいにおとなしく目を細めた。
「……ね。落ち着いた」
「……あなた、山羊まで鎮めるんですか?」
「人も、嵐も、山羊も、おんなじ。疲れてるか、こわがってるだけ。休ませてあげれば、なおる」
なんでもないことのように言って、ネルは山羊の背を、ぽんぽんと撫でた。
「……みんな、がんばりすぎなんだよ」
ぽつりと、ネルが言った。山羊を撫でる手は止めないまま、誰に聞かせるでもなく。
「怒ってる人も、暴れてる嵐も、ほんとは、ただ疲れてる。休めば、たいてい、なおる。……それだけのことなのに、みんな、休むの下手だから」
その言葉に、私はふと、ネルの横顔を見た。
いつもの脱力した半目。けれど、その奥に、ほんの少しだけ何かを見てきた人の色がある気がした。両軍を三日眠らせて、いつのまにかいないことにされた人。この子もまた、自分なりの理由でここへ流れ着いたのだ。
もっとも、当の本人はそれ以上は何も語らず、また、ふわ、とあくびをしただけだったが。
両軍を三日眠らせた力が、迷子の山羊一頭を落ち着かせるのに使われている。なんという、贅沢な使い道だろう。けれど、おびえた山羊が、ネルのそばで安心しきっている様子を見ていると——悪くないな、と私は思った。
◇
山羊に縄をかけ、さあ帰ろう、というときだった。
「……あれ? クロエ、これ見て」
しゃがみこんだリリーが、地面のひとところを指さしていた。
近づいて、私は眉をひそめた。
湿った土に、大きな足跡がくっきりと残っていた。山羊のひづめとはまるで違う。肉球のような、太く、鋭い爪の跡をともなった——獣の足跡だ。それもかなり大きい。
「……これ、山羊のじゃ、ないね」
いつのまにか、ネルが隣に立っていた。眠たげな目が、めずらしく、じっと足跡を見下ろしている。
「犬……にしては、大きすぎますね。熊、でしょうか」
「……熊とも、ちがう気がする」ネルは、小さく首をかしげた。
「なんか……森の、奥のほうのにおいがする」
森の、奥のほう。その言い方が、なんとなく引っかかった。
けれど、あたりはもう、夕暮れの気配が忍び寄っている。深追いするには遅すぎた。
それに、今日の目的は迷子の山羊を連れ帰ることだ。
「……今日は、帰りましょう。山羊が待ちくたびれます」
私は、足跡から目を離し、山羊の縄を引いた。リリーも、ネルも、それ以上は何も言わなかった。
ただ——森を出るとき、ネルが一度だけ、奥のほうを振り返ったのを私は見た。
◇
山羊は無事に村へ返された。
ニコの父親が何度も頭を下げて、お礼にと卵をたくさん持たせてくれた。
その夜の報告会で私は森でのことを話した。
「ネルが、山羊を撫でただけで、おとなしくさせたんですよ」
「あらあら、さすがネルさんですねぇ」
「……山羊、いい子だった」とネル本人は、もう半分眠っている。
卵を使ったシルヴィアの焼き菓子を頬張りながら、リリーが、ふと言った。
「でもさ、あの足跡、なんだったんだろ?」
居間が、少しだけ静かになった。
森の奥の、大きな足跡。山羊のものでも、犬のものでも、たぶん熊のものでもない、何か。
「……まあ、森には、いろんな獣がいますからね」
私は、なんでもないことのように、お茶をすすった。
そう、ただの獣だ。きっと、そうに決まっている。
——そう思いながらも、ネルが振り返った、あの森の奥のことが、なぜか、頭の隅に小さく残って消えなかった。




