第13話『雨で何もできない日』
朝起きると、雨だった。
しとしと、ではない。ざあざあ、と本降りの雨が屋敷の屋根を打っている。
窓の外は灰色に煙って、丘の下の村も、森も、白くにじんで見えなかった。
「……これは、外仕事は無理ですね」
窓辺で私はため息をついた。
今日の予定は頭の中にきっちり組んであった。リリーに薪を補充してもらい、シルヴィアに庭の手入れを頼み、午後には村へ買い出し。なのに、その全部に、朝一番で横棒が引かれてしまった。雨では、薪も濡れる。庭にも出られない。買い出しも、この降りでは荷物がずぶ濡れだ。
予定が、まるごとつぶれた。
私は、手持ち無沙汰になった自分の両手をしばらく眺めた。
……困った。何をすればいいのか、分からない。
「クロエー、なにしてんのー?」
居間に戻ると、リリーが床に寝転がって足をパタパタさせていた。退屈で仕方ない、という顔だ。
じっとしていられないこの人にとって、雨の日は天敵らしい。
「予定が全部つぶれたので、途方に暮れていました」
「えー、雨くらいで? 別になんかして遊べばいいじゃ~ん」
「遊ぶ、という発想が私にはあまりないもので」
言いながら、自分でも少し可笑しくなった。思えば、ずっとそうだった。
聖女になるために勉強漬けで、追われてからは生きるのに必死で。
何もしないでいい時間、というものを、どう過ごせばいいのか、本当に知らないのだ。
「リリーさんこそ、じっとしていられないんでしょう」
「うー、そうなんだよなー。体がウズウズする! 雨の日って、なんでこんなに長いんだろ」
「同じ長さですよ、いつもと」
「ぜったい違うって!」
そう言って、リリーはまた、ごろんと寝返りを打った。退屈を持て余す音が聞こえてきそうだった。
「ねえクロエ、なんか遊ぼうよ~ じゃんけんとか」
「じゃんけんは、二回で飽きますよ」
「じゃあ……にらめっこ!」
「あなた、笑いの沸点が低いので一瞬で負けるでしょう」
「むー。じゃあ、かくれんぼ!」
「この屋敷でかくれんぼをして、奥の部屋で迷子になったら、私が探しに行く羽目になります。却下です」
「クロエ、ぜんぶダメって言うじゃん!」
「危なくないものなら、付き合いますよ。……ただ、あなたの提案は、たいてい途中で家具が壊れるので」
「壊さないし! ……たぶん」
その「たぶん」が信用ならないのだ、と言いかけて、私はやめた。
退屈でうずうずしているリリーを見ているのも、なんだか嫌いではなかったから。
◇
台所のほうからは、甘い匂いが漂ってきていた。
覗いてみると、シルヴィアがのんびりとお菓子を焼いていた。雨の日は雨の日で、この人にはやることがあるらしい。
「あらあら、クロエさん。雨だと、かえって落ち着きますねぇ」
「落ち着きますか」
「ええ。外に出られないと、急かされる気がしませんでしょう? 今日は一日、ゆっくりできますよ」
鼻歌まじりに生地を混ぜる横顔は、いつにも増して穏やかだった。庭で植物を暴走させる心配もない雨の日は、彼女にとってはむしろ気楽な日なのかもしれない。
「焼けたら、お茶にしましょうねぇ。ネルさんは……」
二人で居間のほうを見やる。
ネルは、暖炉の前の特等席で、毛布にくるまって完全に寝入っていた。雨音が子守唄になっているのか、いつにも増してぐっすりだ。
「……ネルさんは、雨の日が、いちばん幸せそうですねぇ」
「あの人は、晴れの日も幸せそうですけどね」
「ふふ、それもそうですねぇ」
◇
結局、私は家計簿をつけることにした。
雨で外に出られないなら、せめて屋内の仕事を片づけよう——そう思って帳面を広げたのだが、暖炉の前はネルが占領している。仕方なく、私はその隣に腰を下ろして膝の上で帳面を開いた。
ぱらぱらと、これまでの支出を書き出していく。小麦粉、塩、油。村で買った保存食。鉛筆を走らせる音と、雨音と、すぐ隣のネルの寝息。それだけが部屋を満たしている。
書きながら、少し肌寒くなってきたな、と思った。
すると、暖炉の薪がパチリと音を立てて、火が少しだけ大きくなった。誰もくべていないのに。部屋の空気がふわりと暖かくなる。
私は、手を止めて暖炉のあたりを見た。
——ああ、あなたですか。
いつもの優しい気配だった。寒くなったのを見ていてくれたのだろう。
掃除を手伝い、ケトルを温め、こうして雨の日には火を足してくれる。
誰なのかはまだ分からない。けれど、ちっとも怖くない。
「ありがとうございます」
小さく呟くと、火が応えるように、ぱちりともう一度爆ぜた。
不思議な時間だった。
何も起きない。誰も、何も、しでかさない。
リリーは床で退屈し、シルヴィアは台所でお菓子を焼き、ネルは寝ている。優しい気配は、そっと火を見ていてくれる。ただ、それだけ。
以前の私なら、こんな時間を「無駄だ」と思ったかもしれない。
一刻も惜しんで何かをしていなければ、自分の価値が消えてしまう気がして、いつも何かに追われていた。役に立たなければ、ここにいる意味がない、と。
空っぽの私が、それでも誰かのそばにいるには、せめて手を動かし続けるしかない。働いていないと不安だった。手を止めた瞬間に、「お前には何もない」と——自分を責める声が、また胸の奥で、ささやきそうで。
けれど——今は。
ページをめくる手を、ふと止める。
隣で眠るネルの寝息は、規則正しく穏やかだ。台所からは、シルヴィアの鼻歌と甘い匂い。床ではリリーが、何をするでもなく雨音を聞いている。
誰も私に何も求めていない。「役に立て」とも「出ていけ」とも言わない。
ただ、同じ屋根の下でそれぞれにだらけている。手を止めても、誰も私を責めなかった。
——ああ、こういうのも、悪くないな。
そう思っている自分に気づいて、私は少しだけ驚いた。
何もしないでいることが、こんなに穏やかだなんて。知らなかった。
働いていない自分が、ここにいてもいいのだと、誰かに許されているような。
そんな、くすぐったい安心が雨音にまぎれて胸の奥にたまっていく。
帳面の隅で鉛筆がとまっていた。私は、なんとなく、その先で、丸い猫の絵を描いていた。
昔、こっそり好きだった、ふくふくした猫。
気づいて、慌てて消そうとして——でも、誰も見ていないので、そのままにしておいた。
◇
夕方になっても、雨はやまなかった。
焼きあがったお菓子と、ネルが寝ぼけまなこで淹れたお茶を囲んで、四人は窓辺に集まっていた。
誰も特に何も話さない。ただ、流れる雨をぼんやり眺めている。
お茶の湯気が、灰色の窓に、ゆらゆらと映る。
今日は、何も成し遂げなかった。薪も割らず、庭も整えず、買い出しにも行かなかった。
帳面さえ半分は猫の絵で埋まってしまった。
なのに、不思議と満ち足りていた。
ふいに、リリーが窓に頬杖をついたまま、ぽつりと言った。
「……なんかさ」
「なんです?」
「こういう日が、ずっと続けばいいのにな……」
いつも誰より動きたがる、じっとしていられないリリーが。
退屈だ退屈だと、朝からこぼしていたリリーが。
雨の窓を見つめて、そんなことを言った。
私は、何も言わなかった。けれど、その言葉は、不思議なほど、すとんと胸に落ちた。
ずっと続けばいいのに。
——たぶん、私も同じことを思っていたのだ。
ネルが「……んっ」と相づちみたいなあくびをして、シルヴィアが「ふふ」と微笑む。
窓ガラスを伝う雨粒を、四人でぼんやり目で追う。どれが先に下までたどり着くか、なんてことを誰も口に出さずに競っている気がした。リリーが見ていた粒が途中で別の粒とぶつかって、ひとつになって流れ落ちると、彼女は「あー」と小さく残念がった。それだけのことがなんだか可笑しかった。
雨は、まだやまなかった。やまなくても、よかった。




