②
「レオ、今大丈夫?」
夕暮れが落ちかけた頃、レイはカリディア家の扉を軽く叩いた。
「レオも今日はお疲れ様でした。私、そろそろ帰るね」
部屋の中は静かだった。
書斎の奥。
書類の山の向こうで、レオは頬杖をついたまま固まっていた。
(……寝てる)
レイは小さく息をつき、そっとドアを閉めようとする。
「レイ!」
その声で、レオが跳ねるように顔を上げた。
「送っていく」
「寝てたのね」
「寝てない」
即答が少し遅い。
二人は顔を見合わせて、同時に笑った。
その笑い声だけが、やけに柔らかく部屋に残る。
カリディア家を出て、小さな森を抜ける。
夕暮れの影が長く伸びていた。
この道を歩く時間だけは、昔から変わらない。
ただ隣にいるだけで、少しだけ安心できる時間。
けれど今日は、なぜか少し違っていた。
「明日、レイの誕生日だな」
「……あれ?」
レイは歩を止めかけて、すぐに思い出そうとした。
(そういえば……)
仕事と準備に追われて、頭から抜け落ちていた。
「ようやく俺と同い年か」
「でも来月にはレオが19才になるわね」
「まぁな」
軽い会話。
いつも通りのはずなのに。
なぜか、少しだけ言葉の間が長い。
「誕生日、祝う時間あるかな」
その声は、少しだけ低かった。
レイは笑って首を振る。
「いいのよ。毎年来るものだもの」
そう言いながら、胸の奥に何かが小さく引っかかった。
森を抜けると、空が少しだけ明るくなっていた。
その境目で、レオは足を止めた。
レイも遅れて立ち止まる。
「……レイ」
呼ばれただけなのに、胸の奥が妙にざわついた。
レオはいつものレオじゃなかった。
ふざけた顔も、軽口もない。
ただ、まっすぐだった。
「今日さ」
少し間が空く。
「もしレイが、どこか遠くの誰かに連れていかれたらって……」
言葉が途中で止まる。
レイは小さく笑った。
「そんなの、ないわよ。アリセナ国の人との結婚なんて、法律で認められてないもの」
冗談のつもりだった。
でも次の瞬間。
レオの手が、レイの腕を掴んだ。
強く。
逃げられないくらいに。
気づいた時には、レイはレオの胸の中にいた。
心臓の音が、近すぎる。
どちらのものか分からないくらいに。
「……ずっと好きだった」
その声は、震えていた。
「出会った頃から。ずっと」
レイの呼吸が止まる。
「誰かに取られるくらいなら、俺が欲しい」
その言葉が落ちた瞬間、
世界の音が少しだけ遠くなった気がした。
レイは、知っていた。
気づかないふりをしていただけで。
この気持ちが、ただの幼なじみじゃないことを。
でも。
(これは……)
(私は……)
言葉が出てこない。
喉の奥で、何かが詰まる。
レオは一度だけ、息を吐いた。
そして少しだけ力を緩めた。
「……明日でいい」
「パーティが終わってからでいい」
その“逃げ道”が優しすぎて、
逆に胸が痛くなった。
気づけばレイは、小さく頷いていた。
「……うん」
その一言だけで、
何かが決まってしまった気がした。
レイが家に戻ると、いつもと同じ夕方の匂いがした。
「おかえりなさい、レイ」
母のナタリーが、花を片付けながら振り向く。
「ただいま」
その声が、少しだけ震えた。
「レオ様は?」
「……すぐ帰っちゃった」
自分でも驚くほど、自然に嘘が出た。
ナタリーは一瞬だけ動きを止めた。
「そう……」
その一言が、やけに静かだった。
レイは視線を逸らしたまま、花束を抱える母の横顔を見る。
(何も気づかないで)
そう思ったのに。
「レイ」
呼ばれて、肩が小さく跳ねる。
ナタリーは花を抱えたまま、少しだけ笑った。
「何か、あったのね」
その一言で、胸の奥が崩れそうになる。
言えなかった。
レオのことも。
自分の気持ちも。
「……なんでもない」
そう言うしかなかった。
ナタリーはそれ以上何も聞かなかった。
ただ、花を一輪だけ手に取ると、そっとレイの髪に挿した。
「レイは、ちゃんと笑っていればいいのよ」
「……うん」
その夜。
ナタリーはいつもより少し早く店を閉めた。




