③
夜会当日。
昼過ぎまで花屋を手伝っていたレイは、ナタリーの手を借りて支度をしていた。
鏡の前で、母に髪を編み込まれる。
指先の優しさが、いつもより少しだけ遅い気がした。
「大丈夫……?レイ」
ナタリーの声は、いつもより静かだった。
レイは小さく頷く。
「うん」
言葉はそれだけだった。
昨夜から胸の奥に残っているものがある。
消えないまま、そこに沈んでいる。
「実はね、レオに告白されたの」
少しだけ迷ってから、レイは口を開いた。
ナタリーの目が、ぱっと明るくなる。
「まあ……!おめでとう」
その反応に、レイは少しだけ息を吐いた。
(やっぱり、そうなるよね)
「嬉しくなかったの?」
「嬉しかったけど……」
言いかけて、止める。
言葉にすると、何かが変わってしまいそうだった。
ナタリーは一瞬だけ困ったように笑い、すぐに優しく言った。
「ゆっくり考えたらいいわ」
その声は、祝福というより“待つ声”だった。
支度が進むにつれ、レイは少しずつ別の人になっていく。
淡いピンクのドレス。
レースの重なり。
鏡の中の自分が、知らない人みたいだった。
「ねぇ、とってもいい」
ナタリーは小さく笑った。
「お母さんのお気に入りのドレスだったの。レイに着せられてよかった」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
でも同時に、どこか遠くで何かがざわついていた。
「お母さんはね、ガラスの靴も馬車も用意できないけど」
ナタリーは少しだけ笑って、レイの肩を撫でた。
「それでもあなたには、ちゃんと幸せになってほしいの」
その声が、やけに遠く感じた。
そしてナタリーは一瞬、何かを思い出したように動きを止めた。
「……そうだわ」
小さく呟いて、化粧台の引き出しを開ける。
そこから白い布が出てきた。
「お母さん、これ……?」
レイが聞くと、ナタリーは少しだけ視線を逸らした。
「アリセナ国ではね……これは隠しておいた方がいいの」
レイの袖が、そっと捲られる。
冷たい指先が肌に触れた瞬間、少しだけ心臓が跳ねた。
包帯が巻かれていく。
ゆっくりと、丁寧に。
まるで“見てはいけないもの”を包むみたいに。
「どうしてかしら……?」
レイは小さく呟いた。
「この国では、刺青ってお守りとか、祈りの意味なのに」
右腕の内側。
包帯の下にあるそれは、レイにとっては“当たり前の一部”だった。
薄紫の小さな花がいくつも連なり、知らない言葉がその間に刻まれている。
幼い頃、病弱だった自分に“生きてほしい”と願って刻まれたものだと聞いていた。
痛みよりも先に、母の手の温もりを思い出すような記憶だった。
でも今、ナタリーの指は少しだけ震えていた。
「お母さん……これ、何か悪いものなの?」
問いかけると、ナタリーは一瞬だけ固まった。
「悪いものじゃないわ」
すぐに否定したその声は、少しだけ強すぎた。
「ただ……この国では、そう見える人もいるの」
その言葉だけが、やけに曖昧だった。
レイは自分の腕を見つめる。
ずっと自分の一部だったものなのに、急に“他人の目”が入り込んできた気がした。
(どうして今になって、こんなふうに隠すの?)
問いかけは喉の奥で止まる。
ナタリーの顔を見た瞬間、それ以上聞けなかった。
ナタリーは包帯の端を結びながら、小さく息を吐いた。
まるで何かを飲み込むように。
「あなたが嫌な思いをしないように、ね」
その声は優しいのに、どこか遠かった。
外から馬の音がした。
一瞬で、空気が変わる。
窓を開けると、白馬が一頭。
その上に、レオがいた。
「レイ、迎えに来たよ」
その笑顔は、いつもよりずっと明るくて。
だからこそ、少しだけ怖かった。
ナタリーは小さく笑った。
「王子様が迎えに来るなんて……本当にお姫様ね」
その言葉に、レイは照れて笑う。
でもナタリーはその横顔を見ながら、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
(どうか、この子が……)
言葉にならない何かを飲み込むように、ナタリーはレイの髪を撫でた。
「行ってらっしゃい、レイ」
「……行ってきます」
白馬が動き出す。
その瞬間だけ、世界が少し遠ざかった気がした。




