八
(動かすな!)
金山正夫はそう念じて、鼻すすりや咳払いを我慢した。咳払いをし過ぎると、耳が悪くなる。そして鼻すすりをすると、ますます顔の片側の筋肉が上に持ちあがってしまうように思えた。
食事のとき、彼はずっと片側のみを使って咀嚼していた。そしてそれが噛み癖というものになってしまっているようだった。
そして深夜の睡眠中に、猛烈な食いしばりをしてしまっている可能性が大きかった。
睡眠中の食いしばりは平常時の三倍以上の強さにも及ぶ。普通の人でも睡眠中の食いしばりは十五分程度はしている。そして顎関節症患者の場合は、その倍以上の四十分くらいはしている。
その片側のみの噛み癖で、夜間猛烈な食いしばりを長い年月やり続けたせいで、今のように喉やこめかみ、顔面などの不快感という症状が出てしまっているのではないか。
金山はそんなふうに思っていた。
そして最近は噛み癖の矯正のため、逆側の方で食事をしたりガムを噛んだりしている。
それでも長い年月で出来上がった噛み癖というものは、そう簡単には変化するものではないように思われた。歯を削ったり、マウスピースをつけて眠ったり、逆側で噛むように心がけたり、柔軟体操をしたり、緑黄色野菜を食べたり、ビタミンの錠剤を飲み続けてみたり、彼は彼なりに、この不快な症状から逃れるためにさまざまな努力をしていた。
(ストレスだ……俺はストレスを受けやすいタイプの人間なのだ。噛み合わせが滅茶苦茶でも顎関節症の症状が出ない人間もいるのだから……)
そんなことを思いながら、金山はM駅の周りをブラブラと歩き始めた。
雨は小降りになっていた。
M駅の周りにはホームレスが多かった。彼よりも身なりの悪い人間がたくさんいた。
それが彼をひどく安心させた。
(下には下がいるものだ……)
金山は、とりあえずコンビニにでも入って時間を潰そうと思って、歩いていた。
すると前からサングラスをかけた坊主頭の若者が歩いてきた。
金山は慌てて道をあけたが、彼が避けた方向にサングラスの若者は歩いてくる。金山はますます慌てて、斜め横に歩いて、若者を避けようとした。それでも、ふんぞり返ったサングラスの若者は、どんどん彼のほうへと歩いてくる。
金山はとうとう立ち止まり、若者をやり過ごそうとした。
どすっ!
若者は、わざとのように、金山の肩に体をぶつけた。
「あ、すみません……」
金山は慌てて謝った。
サングラスの若者は何事もなかったような態度で、そのままスタスタと歩いていった。
金山は唖然として、その後姿を眺めた。
ふいに猛烈な怒りが沸きあがった。
(なんなんだ! あいつはなんなんだ‼︎)
金山の視界が、グンニャリと曲がった。
彼は顔色を変えて、サングラスの若者の後を追って歩いた。その背中を、思いきり蹴ってやるつもりだ。
金山は走り出した。ますます視界は、夢の中の世界のように、ぼんやりしてきた。
(いかん!!!!!!!!!)
すんでのところで、立ち止まった。
彼は今、完全にキレかかっていた。
彼は立ち尽くし、真っ白な顔色をしていた。その手と唇はブルブルと震えていた。その目はまだサングラスの若者の後姿を睨んでいた。
自分で自分に驚いた。理性が吹き飛びそうになった。
十代の頃は、よくこんな感覚になったことがある。憎しみで我を忘れてしまう、凶暴の発作である。
さっきまではわりといい気分でいれたのである。それが、いきなり不安定な精神状態になってしまった。
何をどうしたらいいのか分からない。
めくらめっぽうに歩いた。
コンビニに入る気にもならない。
ずっと歩いた。
ようやく少し落ち着いてきた。
(冷静さがすべてだ……)
そんな考えが、ふいに彼に訪れた。彼の口癖の一つだった。
彼は人一倍怒りっぽい人間だった。だが他者は、彼に対してぞんざいな態度しか取らない。だから彼はますます腹を立て、ますます他者を憎む。
冷静さがすべてという発想で生きても、それでも全然冷静さが足りなかった。何かちょっとしたことで、すぐに普通の状態ではなくなってしまう。
こんなふうでは、物事を楽しむ余裕は持てない。
(冷静さがすべて……)
金山は呪文のようにそう念じ続けた。
そもそもこの顎関節症のような症状。絶え間なく頭を小突かれているようなものである。常に続く不快感。いつもイライラしている。ますます怒りっぽくなる。
それでもだいぶ落ち着いた金山は、ようやくコンビニに入った。
店員は誰も彼に挨拶をしない。
「いらっしゃいませー」
金山の後から入ってくる客は皆、店員から挨拶されていた。
彼はそのことでまた嫌な気分になったが、ふいに開き直った。
(冷静さがすべてだ。けけけ! 肉親が殺されようと何されようと、全然怒らない人間を目指すのだ。けけけ。挨拶なんてしなくていい。ごめんな、マヌケなクソ店員さん。こんなびしょ濡れの姿で店の中に入ってしまって。くそくらえ! どいつもこいつも死ね‼︎ いかん……冷静さがすべてだ……)
さまざまな感情や考えが彼の頭の中で渦巻いた。彼はつとめて平静を保ちながら漫画本を手に取り、立ち読みを始めた。読んだ漫画は面白かった。
そうこうしてるうちに岡本圭介との待ち合わせの時間が迫ってきた。
金山は漫画本を棚に戻し、俯いて店員の視線を避けながら、コンビニを後にした。




