一九
やがて時刻は全体の休憩時間の時間帯になった。
この休憩時間に従っていない職場もある。しかしほとんどの職場はこの工場全体の休憩時間に合わせていた。
金山正夫はフラフラと立ち上がり、営業の内田と会うためにホワイトボードの方へと歩き出した。
まだ休憩に入ったばかりで、あまり人はいなかった。そして巨大なホワイトボードの前では数人の割り振り担当者が、すでに難しい顔つきで名札の割り振りを行っていた。
その担当者の一人の横顔が金山正夫の目に入った。
そしてその瞬間、彼は凍りついたようにその場に立ち尽くした。その顔は青ざめて、手足が震えだした。
(石橋だ……)
金山の顔は恐怖で引きつっていた。
彼が、昔さんざん苦しめられた、たちの悪いヤクザのような男が、そこにいた。
彼は、その男のことを、心底恐れていた。そして、殺したいほど憎悪していた。
その、石橋という名のがっちりとした体格の小太りの男は、チラリと金山の方へ目をやった。そしてやはりその男の方も金山を確認して、しばし動きを止めた。
そしてじっと金山を眺めた。
二人はじっと見つめ合っていた。
金山はその場から逃げ出したかったが、脚がすくんで動けない。
石橋の方は、いつまでもじっと金山を眺めていた。
その顔は怪訝そうに見えた。見覚えのある顔なのだが、どうしても思い出せないといった風であった。
ふいに石橋の顔つきが変わった。
ようやく思い出したようである。
そして石橋は薄ら笑いを浮かべて、しばし金山を観察した後、何事もなかったような態度でホワイトボードの作業に戻った。その後はまったく金山には目もくれなかった。
金山は周りの状況が全く見えなくなった状態で、まだしばしその場で立ち尽くし、そしてやがて、再び休憩室の方へと歩き出した。
震える足取りで歩きながら、彼は人差し指を激しく振っていた。そしてその震える唇からは、吐き捨てるような激しい憎しみの言葉が次から次へと溢れ出ていた。
石橋に対する恐怖でペチャンコになってしまいそうだった。
そしてそれを避けるために、ことさらに自分の中の憎しみの感情や、凶暴性をあおっていた。憎しみや殺意で、この強烈な恐怖感を圧倒したかった。
(あの頃、俺をさんざんに苦しめた男だ……俺もさんざん逃げまわって、さんざん追いまわされて……家にまで何度も押しかけてきて……さんざん舐めてくれた奴だ……殺してやりたい)
ふいに金山は立ち止まり、再びホワイトボードの方へと歩き出した。
(ナイフとか、ないだろうか……今の薄ら笑い、本当に許せん……とことん舐めてる……)
金山は手ぢかの職場を色々と物色し、石橋を殺す武器になりそうなものを、ほとんど本気で探していた。
彼の視界はモヤモヤとして、まるで夢の中の世界をさまよっているような感触だった。
ふいに訪れた恐怖と、強烈な憎しみだった。
あの馬鹿にしたような笑顔が許せなかった。あんな奴が、のうのうと生きているのが、許せなかった。あんな奴が、のうのうと息をしているのが許せなかった。
身近の職場で彼は一番大きなトンカチを手にした。そしてそれをぶら下げて再び石橋のところへと向かった。
ホワイトボードが再びだんだんと見えてきて、ますます視界はぐんにゃりと曲がった。
金山はゆっくりと脚の歩みを速め、やがて小走りになった。
そしてそのまま、
無防備な後姿の石橋の、
脳天を、
トンカチで、
がつんと、
思いきり、
頭蓋骨を叩き割る……
と思いきや、金山正夫は途中で立ち止まった。
そして紙のような真っ白な顔色で、まわれ右をして、ホワイトボードから遠ざかった。
彼は恐怖でブルブルと震えていた。自分に突然湧き上がってきた凶暴性に慄然とした。
彼は手に持ったトンカチを適当な場所に素早く置いた。そして何事もなかったような態度で休憩室のほうへと戻っていった。




