一〇
金山正夫の気色の悪いニヤケづらがおさまった後、彼はバスの中でぼんやりと物思いにふけっていた。
水びたしの身なり、思い通りにいかない現実、借金、体調不良……
寒気がする。どうやら発熱してしまっているようだ。
彼は何気なく、バスの中を見まわしてみた。すると、知り合いと目が合った。彼は、慌てて目をそらせた。
あの髭づら、ぎょろりとした目。
なんて名前だっただろうか、度忘れした。すごく嫌な奴だった。偉そうな喋り方をする。図々しく、乱暴で、嫌な奴だ。
話しかけてこられるかも知れない。
そう思うと、ぞっとした。
金山はその知り合いと目が合ってから、まるで石にでもなったような気分になった。
(そうか、働くとは、ああいう奴とも接するということか……)
先ほどまでの人恋しさは、一瞬で消えた。
やはり一人がいい。
(うんざりだ……話しかけられても無視しよう……)
バスは、F工場の正門の前に到着した。そして乗客はゾロゾロと降りた。金山の知り合いも、彼の横を通り過ぎた。
しかし金山は座ったままだ。
いつまでも降りようとしない彼を、バスの運転手はしばし待った。
再びバスは動き出した。今度は、M駅前に戻ることになる。
バスは移動した。そして、M駅前に到着した。
金山は難しい顔をして、バスを降りた。そして、恐ろしくゆっくりとした足取りで、M駅へ向かった。
切符を買い、改札口を通り、ホームに上がった。
わき目も振らず、まっすぐに家に帰るつもりであった。
(そうだ、働くということは、またああいう連中とも接するということなのだ……。うんざりするけど仕方がない。石にかじりついてでも、なんとかやっていかねばならない。でも今回は、一度家に帰って、寝よう。なんか寒い……)
到着した電車に乗り込んだ彼は、ドアの前にぴったりとへばりついていた。眉間には深い皺を寄せていた。
認識が甘かった。
働かねばならない。さもなければ生活していけない。とにかく働かねばならない。
ああいった嫌な奴らもたくさんいる。
どいつもこいつも嫌な奴ばかりだ。くだらない奴ばかりだ。
(でも、中には良い人もいる。確かにいる。そうだな……十人に一人くらいだろうか。そして頑張って働き続ければ、話し相手だって出来るかもしれない。頑張らなければいけない……)
電車は彼のアパートの最寄り駅に到着した。彼は俯いたまま、自分の家に向かって歩いた。
早く家に帰りたかった。
嫌な気分だった。
何一つ思い通りにならない。
でも頑張らなければいけないのだ。昔のようになりたくなければ──
そう、彼は実家の宮崎にいた頃、他人が怖かった。そして、身内にだけ強かった。
内弁慶であった。自分の母や弟にだけ、強気な態度だった。
わがまま放題であった。そして気に入らないことがあると、家の中で暴れた。母に暴力を振るったりもした。
そして家から一歩外に出ると、子猫以上に弱々しかった。他人が怖くて仕方がなかった──
(あの頃には戻りたくない。これでもだいぶマシになっている。あんな風には戻りたくない。とにかく、なんとか自分の力で生活していくこと。それが出来ないなら、死んだ方がいい……)
アパートに到着した彼は、服を脱いで、それを洗濯機に入れた。洗剤をいれ、洗濯機を動かした。
靴も風呂場で水で洗った。そしてベランダにそれを下向きにして置いた。
シャワーを浴びて、カップラーメンを食べた。
人参二本を包丁で切って食べた。
洗濯が終わって、服を室内で干した。
そして布団に潜りこんだ。
(はー、きつい……)
次々と浮かんでくる色々な思いを、ぼんやりと眺めているうちに、彼は眠りについた。
それから彼は、長々と布団から出てこなかった。
色々と考えた。身もだえした。たくさんの決意や覚悟をした。すぐに嫌になった。
トイレに立ち、また布団にもぐり込んだ。
食事も面倒で、生卵をそのまま飲んだ。
体がブルブルと震えていたが、やがてそれもおさまった。
丸二日、彼はそんな風にプレッシャーに悶えながら、寝そべっていた。
こうしている間にも、金銭的に苦しくなるばかりだ。一刻も早く働き始めないといけない。
苦しみながら寝そべり続けた後に、ようやく布団から出た。
シャワーを浴びて、髭をそった。
服を着て、外出の支度をした。




