ここで一緒に生きて行く。
びょこん、と前扉から降りるなり、
「びやっくしょーい!」
山の向こうまで鼻を吹っ飛ばす勢いでレヴィルヴィアがでかいくしゃみを一つ。
びやっくしょーい、やっくしょーい、っくしょーい……、しばし、その品性の欠片もないくしゃみが鮒月駅前に響き渡った。いや、レヴィルヴィアのくしゃみの音はひょっとしたら鮒月村全域に響いたかもしれない。遥か湿原のほう、鉛色の雲の隙間から僅かに晴れ間が覗く空に、鶴の群れが飛び上がった。雪は降っていないが、今朝もとても寒かった。
「ぴゃー。いったいいつになったら暖かくなるのじゃ……」
「今月の末ぐらいまでずっとこんなだ。……くしゃみするときは口覆うぐらいしろよ」
「んむ……、すまぬ……」
駅前停留所で待つ客はいなかった。このあと、十時五十七分と十一時十分に到着する列車の客を待って十一時十五分に発車する「1系統」の便である。
昨日の夕飯は、清継が朝陽とこの少女に手伝わせて作ったハンバーグであった。「さはらストアー」で材料を買い込むのにも二人のこどもは随いて行って、荷物持ちもきちんとしたし、レヴィルヴィアは米を研ぐところからそれはそれは汚い字でメモを取りながら習ったのである。ハンバーグなんていうものは誰が作っても美味いに決まっているし、清継が作ったものと思えばこそいっそう輝いて見える食べものであるが、レヴィルヴィアが生地を捏ね、両手でぽんぽんとやり取りして作ったものであると思っても味が落ちることはなかった。今朝は目覚まし一発で布団から起きて、パジャマにコートを羽織って清継の部屋へ駆けて行った。暁李が身支度を整え切った二十分後に清継と一緒に戻ってきた彼女の手には、「ンッフフーン」と得意気な顔で、コーヒーの入った水筒とサンドイッチの包み。清継のお弁当作りを手伝ったのである。
「こうしてヴィヴィがお手伝いしてくれると、俺は三十分も長く眠れるんだなあ」
こんな男のために毎朝そんなに早くから起きて弁当を拵えてくれていることには、それこそ土下座したって足りないほどの感謝を催さざるを得ない。しかし豊嶋清継という人は、
「嬉しいことだよね」
と言うのだ。「生きててよかったって思うよね」
暁李は清継がレヴィルヴィアに教えたあの温泉のことを思い出した。彼の歩いてきた道はとても危うく、幾度となく酷い目に遭い、……辿り着いたのがあの崖だったのだとしたら、あそこに温泉が湧いていてくれたことはどれほど救いであったろう。
「キヨは長生きをせねばならぬ」
レヴィルヴィアの目には、誇りが輝いていた。彼女が双眸にそういう光を宿さざるを得なくなるほどたくさんの言葉を清継がもたらしたに違いなかった。
「……それにしても、今日はお客がおらんのう」
第二土曜日、よって村立小学校は休みである。バスのダイヤも休校日仕様で、本数も間引きしている。「2系統」は病院通いの老人たちで今日も盛況であるが、暁李の「1系統」はこの通り。レヴィルヴィアは「まもなく、鮒月駅前ー、こんどの馬連内方面はえーと十時五十八分、檜垣方面は十二時十一分なのじゃ」ときちんとアナウンスしたが、それを聴いていたのは残念ながら暁李一人である。
少女の横顔は曇っている。この世界に骨を埋めて生きていくと決めたとき、鮒月バスの先行きは彼女の歩む道そのものを揺らがせてしまうので。社長の暁李にとっても頭の痛い問題であるが、限られた収入を睨んでどれだけ合理化を徹底できるかは、社長らしくは見られていない暁李の手腕の見せどころである。当然のことながら、社員である清継と尊に給料は出さなければいけないし、暁李自身の生活もまたその給料で賄われている。こういうことを考え始めると、暁李の横顔は「ふり」をしている余裕もないほど不幸な陰が差すのだが、
「まあ……、どうにかするさ」
薄い笑みを浮かべて言うのだ。
根拠があるわけではない、しかし生きている限り、歩みは止まらない。だとしたら、歩き続けていくのだ、堂々と。生きててよかった、……清継の美しい姿を見て暁李は今朝思ったのだ。
異界にて、ああ死ぬんだなこうやって死ぬんだ、現実の痛みを身に浴びることを覚悟した瞬間があった。あれを、清継の人生と比べることなんてあまりにも烏滸がましいけれど。
「むう……、そなたがそう申すのであれば、妾としてもそれを信じるほかないが……」
停留所備え付けのベンチに腰を下ろして、白い溜め息を吐き出す。ベンチは尊の手製、座布団は近くの老人が「家で使わんくなったで」と無償でくれたものだ。停留所のポールに設置された時刻表は、村立小学校の図工クラブの児童たちが作ってくれた。村人たちに支えられて辛くも生き永らえている鮒月バスであると思えばこそ、ますますもってこの命は大切に繋げていかなければいけない。
「ああ、何かこう、ないかのう……」
暁李が隣に座ったところで、またレヴィルヴィアが溜め息を吐いた。
「何かって、何だよ」
「つまり……、こう……、こうやってバスを走らせておりつつも、上手いこと金子がぽくぽく沸いて出てくるようなことが」
ろくなことを考えないんだなと思ったが、いまに始まったことではない。
「別に妾は贅沢がしたいのではないぞ。ただ、……その、のう。夫や、夫の愛する者たちにがせせこましいことで悩んでおるならば、なにかこう、……のう?」
いまの言葉を聴けば「その気持ちだけで十分だよ」と清継は言うだろう、尊は「嫁ちゃんはいい子だよな」と言うだろうし、朝陽もおおむね同意するところであろう。暁李は特にコメントすることなく、ちらりと腕時計を見る。五十三分。檜垣方面から、ことことと音を立てて「北銀河キラメキ鉄道」のディーゼルカーが走ってきた。まだずいぶん遠いところにいるのに、「よし」と気合いを入れた顔でレヴィルヴィアが立ち上がり、
「のう暁李、妾決めたぞ。これからはもっともーっと愛想よくお客を出迎えることにする。そしたら妾に会いたくてバスに乗りに来るお客がいっぱい来るやもしれぬぞ!」
にん、と寒空を照らすデヴィルズスマイル。レヴィルヴィアの笑顔が人の心を照らす光であることは、まあ自身が証拠になっているので暁李も認めざるを得ないのだが、残念ながら馬連内や檜垣からわざわざ鮒月に来る人間なんてそうそういないのである。
だもので、実は昨年の暮れには北銀河キラメキ鉄道から「来年の四月から土休日の昼間の列車は鮒月駅を通過してもいいですか」なんて提案をされていた。そんなことになればますます村は寂れてしまう……、食い止めるべく必死にあちこちへ頭を下げて回るという仕事を請け負ってくれたのは清継だった。村役場に出向き、村長にもキラメキ鉄道に強く全停車存続を訴えるよう求めたが、色よい返事は貰えなかった。
ほぼ本決まりになっていたところを辛くも救ったのは、年明け間もなくに起きたトンネル内立ち往生事故である。不幸な事故ではあったが、あの際の鮒月バスの対応がキラメキ鉄道の経営陣の心を動かした。めでたく四月からも全便が鮒月駅に停車することが決まったのはつい先週。
「……ほう、そのようなことがのう……。ん、待て、キラメキ鉄道ってぜんぶ各駅停車じゃろ」
そう。なので鮒月駅が通過されることとなっては「各駅停車(鮒月を除く)」という、それはそれは不名誉で悲哀に満ちた扱いを受けることとなっていたのである。
「むうう、それはけしからぬうう! 確かに鮒月は辺鄙な田舎のたいしてみどころのないとこではあるけども!」
レヴィルヴィアが地団駄を踏んだ。
全列車が今後も鮒月駅に停車するのは極論、レヴィルヴィアが清継を心配するあまりに暴走したからで、だからじたばたしているこのおよめさんのお陰なのである。暁李一人であったら、不安を抱えながらいつまででも運行再開を待っていたかもしれない。
「列車が着くぞ。デヴィルズスマイルはどうした」
「んぐっ……、ぬうう……、にんッ、いらっしゃいませようこそ鮒月へー!」
仮に彼女がそう愛想を振り撒いたところで、よそから降りてくる乗客なんているはずがないのだ。しかしこの日の列車からは珍しく、親子連れ、檜垣高校の生徒とおぼしき女子高生の二人連れ、内気そうな男子中学生……、と数名の客が降りてくる。土曜の午前中であることを思えば、驚くべき人出である。駅から停留所への階段を、まず降りてくるのは親子連れ、母親と手を繋いだこどもは、小学校の低学年ぐらいだろうか。女の子である。寒さのせいか鼻と頬を紅くして、
「ンフフー、ようこそ鮒月へなのじゃ!」
レヴィルヴィアが言うのを見て、びくんと身を強張らせる。運転席に収まって中ドアを開けた暁李は、「まあ、あんなのに『ようこそなのじゃ』とか言われたら驚くよな」と小さく独語しつつ苦笑した。母親が、娘に促すように何か言う。レヴィルヴィアが幼女に視線の高さを合わせるように腰を屈めた。おずおずと、幼女が何かを差し出す。
「えー!」
すっとんきょうな声が、鮒月中に響き渡った。
「え、え、そ、そ、それは、まことか、まことか、あわわわわ」
レヴィルヴィアの慌てふためく声だけが暁李には届く。何事かと腰を浮かせて見ているうちに、スカートの下に紺のジャージを穿いて防寒した女子高生二人組が、そして、少し離れたところから遠慮がちに見ていた男子中学生も、頬を紅潮させて何かを差し出した。
その手にあるものは、どうやら菓子のようである。
何であいつが菓子を貰うんだ、……と訝って間もなく、暁李は「あ」と声を上げた。
暁李は忘れていた、そしてどうやらレヴィルヴィアも忘れていた様子である。
今日は三月十四日、ホワイトデー。親子連れも女子高生も男子中学生も、二月にレヴィルヴィアが「魔皇女ちゃんねる」にて披露した手作りチョコレートの礼を携えて今日、鮒月へやって来たのである。
暁李は青ざめた。この日にレヴィルヴィアが鮒月にいるなんてこと、全く想定していなかったので、もちろん何の用意もしていない。
「暁李! 見よ! 妾チョコレートのお返しにこんなにたくさんお菓子貰ったのじゃ!」
はしゃいだ声を上げてバスに飛び込んできたおよめさんと目を合わせられない。それでも、満開の笑顔に吸い寄せられて向けた顔に、
「して、そなたはどんなお返しをくれるのじゃ?」
期待に目を輝かせてレヴィルヴィアは訊く。答える言葉を、暁李は一つも持ち合わせていないのだった。
約十分後、馬連内から檜垣へ向かうディーゼルカーからもレヴィルヴィア目当ての「魔皇女ちゃんねる」視聴者が七組総勢十八名が降りてきた。通学時間帯でもないのに車内のおおむねの席が埋まるという、異常事態である。客たちの目的はレヴィルヴィアであって、返礼品を渡せたのであればそれで満足かと思いきやさにあらず。
「ンフフー、皆の衆、今日はわざわざ妾に会いに来てくれて嬉しく思うぞ」
左前輪タイヤハウス上の「車掌席」によじ登って、レヴィルヴィアが声を上げる。ぱちぱちぱち、と自然発生的に生まれた拍手にますます気を良くして、
「このバスはー、鮒月バスの1系統、公民館、玄象寺、神子沼、小学校、消防署、村役場方面の循環バスなのじゃ。既に皆の衆は知っての通り、鮒月村はあっちこっちみどころだっぷりゆえ、時間を忘れてぞんぶんに楽しんで行くとよいぞ!」
得意満面に言う。中扉を閉めて、大きく深呼吸。これが一時的なホワイトデー・バブルなのか、それとも今後レヴィルヴィアの動画に惹かれてもっと人が来るようになるのか、……無論、過度の期待は禁物であるが。
「では暁李、出発進行じゃ!」
この世界は、決して不幸なものではない。
レヴィルヴィアが笑っていれば、案外にそれだけで幸せになってしまうものなのだ。
静かにステアリングを握り、暁李はバスを発進させる。
バスが、春近い鮒月の道をゆっくりと走り始めた。




