父
暁李は、……いや、レヴィルヴィアも、ひょっとしたら清継も、このあいだ朝陽が怒ったときは、実はちっとも本気じゃなかったのかも知れないとの考えを巡らせるには十分な、
「お前、ふざけんなよ、兄ちゃんが何したって言うんだ、ぜんぶ、ぜんぶ、兄ちゃん何も悪くないことじゃないか!」
甲高い声の、怒号。幼くとも、朝陽には勇者の語った言葉の意味は全て理解出来てしまっていただろう、自身も受け継ぐその血の呪しさに思いを馳せただろう。一方で、
「んむ……、うむ! 朝陽の言う通りじゃ! 尊は何も悪くない、暁李も悪いことなどしておらぬ!」
どこまで理解しているのかいまいち判然としないか、レヴィルヴィアも凛々しく声を上げた。
「ああ、そうだ」
鮒月での姿からは想像も付かぬ敏捷さで、尊の盾の陰から清継が身を躍らせた。
「責任取れよな。自分が守れなかっただけじゃないか。……あんたが次に言うことを当ててやるよ……、この俺のことまで佐原の『おこぼれ』とでもほざくつもりだろう!」
朝陽の弾丸はどうやら何らかの、想像するに魔法の力による障壁で防ぐことが容易いらしい勇者も、肉体的には見た目通りの少年の水準しか持たないようだ。はっきり判るほど顔を強張らせて玉座から飛び退いた。
「尊」
怯えて萎んだ背中に向けて、紡ぐ言葉に少し迷った。しかし、
「ふざけたことを抜かすんじゃないっ、俺が……、俺がっ、何を思って、何のために、あんたと、本気で、結婚しようと思ったか……」
激しい怒りに駆られて、美しい顔を歪めて勇者を追い回し、乱暴さの塊と化した右の拳を振るう清継を見て、格好を付ける意味もないことに気付く。
「平気だから。俺は、平気だ、全然。お前は何も悪くないし、お前は、俺の……、友達だ、何も変わらないから」
「そういうのは、もっと洒落た言いかたをすべきところではないのかのう……」
レヴィルヴィアに呆れられるのはなかなか精神的なダメージの大きいことであるが。
こくん、と尊は頷いた。朝陽よりも清継よりも、あの少年勇者を殴りたい腕で盾を構えたまま、じっと動かない。万が一、思わぬ反撃の魔法が飛んで来ないとも限らない。魔法の力を帯びていない暁李と、ぽんこつのレヴィルヴィア、脆弱な二人を守るために。
しかし、懸念するほどのことはないのかもしれない。朝陽の放つ光の弾丸、散弾、どうにかして払いのけたところを、清継の拳が執拗に狙う。玉座の背凭れを盾に朝陽の弾丸から身を守った。
捕まえて、帰る。
そのあと、どうする? 捕まえて帰ること目的になっていたことに暁李はこのとき初めて気付いたし、……聡明な清継はそのあとの具体的な方法論を持っていたのかも知れないが、尊も朝陽も恐らくは何も考えてはいなかった。どうするのが本当であるか、暁李にはいまいち判らない。警察に突き出す? 突き出したところで善良な駐在氏を困惑させることになるだろう。かと言って……。
「動くな!」
そういうことを考えるのはまだ早かった。清継の躊躇いのない殴打を躱した少年が、高い声を謁見の間に響き渡らせた。
その手に掴んだものを見て、レヴィルヴィアが悲鳴を上げた。
「チェルニィ!」
恐らく、彼女の声を聴かなければ清継は手を止めることはなかっただろう、暁李も少年が何を掴んでいるのか判然としなかった。その名前にもう耳馴染みがあって、それがどういう物体であるかを知っていても、……一見してそれが何であるか、暁李には判らなかった。
だってそれは、黒い毛玉の塊のようにしか見えなかったから。
遠目には、どのあたりが猫であるかを見分けるのも難儀である。確かに三角形の角のようなものが頭部と思しき部分に二つ突き出してはいるのだが、それが「耳」であると知るためにはそもそもチェルニィが「猫」であることを知っていなければならない。なるほど、あれが頭だとするならば胴は……。
しかし手足はあの突起物であろうか? だとしたらずいぶん短い、マンチカンどころの騒ぎじゃない……。
幼き日のレヴィルヴィアに、彼女の亡き母が贈ったぬいぐるみであるから、もちろん悪く言うことは憚られる。
ただ、だいぶへたくそである。
しかし少年勇者はそのぬいぐるみがレヴィルヴィアにとってどれほど大きな意味を持つものであるかを熟知しているらしかった。
「んなっ、なっ、何をする! 離せ! たわけもの!」
レヴィルヴィアの声は早くも半泣きである。「そのように尻尾でぶら下げるやつがあるかぁ!」
ああ、やはりあの長いのは尻尾なのだ、と暁李は知る。なるほど、というほど呑気なものではないにせよ、それが「尻尾」であることを認識すれば暁李以外の三人もチェルニィが猫であることを学んだに違いなかった。
猫を尻尾でぶら下げてはいけないのは、言うまでもないことである。
「そこのぽんこつ魔皇女。こいつを傷付けられるのが嫌なら、いますぐお前の連れてきたこの連中を向こうへ飛ばせ。そうしたら、この不細工なぬいぐるみはお前に返してやろう」
馬鹿らしい取り引きであるなどとは思わなかった。寧ろ、清継と朝陽によって追い詰められた勇者の窮余の一策としては最上のもの、つまり、それだけに憎たらしいもの。歳の近い朝陽にはレヴィルヴィアがチェルニィに向ける思いはすぐに理解出来ただろうし、彼女を自分の妹のように愛する清継にしてもそれは同じ。
「あんた、マジでいい加減にしろよ」
忌々しげに吠えながらも、清継は一歩後ずさった。
「何度でも言うがいいさ。私は鮒月には帰らない。……どうした魔皇女、さっさとしろよ!」
この醜い卑劣漢の血が自分に流れていることが、恥ずかしく情けなく、暁李の耳は勇者の正体を知ったとき以上の勢いで熱くなった。
そこへ、
「……嫌じゃ」
レヴィルヴィアの震えた声が届く。
「嫌じゃ! この者たちをあの村へ返すときは、貴様を連れて行くときじゃ! この者たちはそのために、……妾のために戦ってくれておるのに、妾がそれを止めるわけにはいかぬ!」
勇者の顔がきつく顰められた。レヴィルヴィアの気丈な声が、癪に触ったに違いなかった。しかし清継は動かない、朝陽も手元の光弾を止めた。二人のどちらも、それが単なる不細工なぬいぐるみではなく、レヴィルヴィアにとって唯一無二の宝物であることを理解しているのだ。
「なっ……、何をしておる! キヨ、朝陽! 妾に構わずやってしまうのじゃ!」
清継も朝陽も、レヴィルヴィアにどれほど求められようと、彼女の心を守るためにこそ腕を振るうことは憚られる。物言わぬぬいぐるみのチェルニィは、勇者にとって極めて優秀な「人質」ならぬ猫質である。
しかし、では、どうすればいい。暁李を含め、瞬時に判断を下せる者はいなかった。レヴィルヴィアが地団駄を踏んで悔しげな声を上げたが、本当に今にも切れてしまいそうなチェルニィの尻尾を見れば、誰も身動きは取れない。どうか早く、この少女の宝物を返して欲しい、チェルニィにとっては何より暖かく優しく感じられるはずのその腕に収めてやって欲しい。
願いは、レヴィルヴィアの心を守るためにこそこの世界にいるのだという事実に、暁李の目を開かせた。
少年勇者は、清継の愛した恋人、尊を導いた上司、そしてたった一人、暁李の父である。
「返せ」
しかし、もはや三人の誰にとっても守りたく思うのは、レヴィルヴィアである。異世界の魔皇女、去年の末まではその存在さえ知らなかった、ぽんこつな、しかし悪意のかけらもない少女である。
「勇者。……チェルニィを返せ」
少年の相貌にサディスティックな笑みが満ちた。彼は油断なく清継と朝陽に目を向けたまま言う。
「ただで返すわけには行くか。お前たちがここを去ると誓うなら返してやろう」
「暁李!」
涙目でレヴィルヴィアは叫んだ。「ならぬ! ……ならぬ!」
暁李は彼女の声に耳を貸さなかった。「先輩、朝陽、下がって」
言葉に応じて、清継が、僅かに遅れて朝陽が、じりじりと後ずさる。
悔しさがないわけではない。俺に彼らのような力が備わっていたなら、……光より速く勇者の懐に飛び込んで、最大限の丁重さを持って、チェルニィを奪い返してやるのに。
いいや、無力であったとしても構うものか。
暁李は誤らなかった。重要なものが何であるか、こうしてしっかりと選ぶことが出来たのだから、これで十分過ぎる。こうして下した冷静な判断を恥じる理由などない。
「私は、この世界から帰らない。この小さな島国の、……やがては皇帝となる。それが判っていながら、一体なぜあんな窮屈な田舎の村に帰ると言うのか」
勇者の言葉が示唆するところにも、暁李は気付けた。
「たわけたことを……、父上がおぬしのような者に王位を譲るはずがなかろうが!」
レヴィルヴィアが怒鳴った通り、そんな道理はない。勇者は異界からの侵略者であり、自身の権力を脅かした存在であるならば、勇者を排除するためにレヴィルヴィアの父はあらゆる手段を講じるのが当然である。
しかし、これまでのところ、どうであるか。レヴィルヴィアの父、魔皇帝なる人物は影も形もなく、勇者は玉座を我が物顔で占領し、この城の兵隊たちはいずれも迷いなくレヴィルヴィア率いる四人を攻撃してきた。
権力が未だ魔皇帝の中に僅かでも止まっていたなら、その実子であるレヴィルヴィアの帰還を喜びこそすれ、攻撃を加えてくることは考えにくい。四人によって勇者が追放される事態は彼らにとっても祝福すべきことであり、まして魔皇女に刃を向けたとなれば、後々に遺恨の残ることは明白であるにも関わらず、彼らが手加減のない攻撃をしてきたということは。
「レヴィルヴィア」
尊、朝陽、お前たちは気付いているか。……先輩、あなたは。
「……チェルニィを取り戻したら、鮒月に帰るぞ」
「んなっ……」
レヴィルヴィアにとって、この世界が、この国が、もはや少しの優しさもないものに変じて久しいことを。
いや、変じた……、というのも間違いか。そもそもこの世界は、彼女が救いたいという願いを胸に抱いたそのときにはもう、彼女を排除することを定めていたに違いない。
「な……、ならぬ! そんなの絶対に絶対にならぬ! 妾たちがここで退いたら、いったい誰がこの国を守ると申すのじゃ!」
レヴィルヴィアの悲痛な声が胸に刺さった。彼女は気付いていない、そんなことあるはずないと、……尊と朝陽の、そして暁李の姿を見てもなお、そのようなことが自分の身に起こるなどとはこれっぽっちも思っていない。
「返せ」
清継は気付いたのだろう。左手を差し出して、「チェルニィを返せ」
卑怯を憎み、ひょっとしたらこの男を一瞬でも愛した自分自身さえも憎悪する、怒りに満ちた声で。
「そうしたら……、もう、お前のことなんか知らない、俺たちは鮒月に帰る」
声を上げる暇さえなかった。勇者が一息に駆け出し、清継の美しい顔面目掛けて、拳を打ち付けた。
「キヨ!」
レヴィルヴィアの悲鳴と、清継の身体が倒れる音とが重なって響いた。「貴様、貴様ぁああっ」
「こいつらの思いをお前が無にするのか? このぽんこつ魔皇女」
暁李が抱き留めることでどうにか制止した腕の中で、「許さぬ! キヨになんてことするのじゃこのボケぇえええ!」レヴィルヴィアが酷い悪態を吐く。頰を抑えて立ち上がる清継を、少年勇者がせせら嗤った。加えて、清継に駆け寄った朝陽の身体にこどもの動きとは思えぬ俊敏さで蹴りを食らわせる。尊の身体に火が点いた次の瞬間、……瞬きよりも速く、尊の盾が弾き飛ばされ、腕っ節という点においては四人の中で並ぶ者のいない彼の身体が、大理石の床の上に弾んだ。
「これが現実の痛みだ」
嬉しくて嬉しくて仕方がない様子で勇者は言った。「ちょっと本気を出せばこんなものだ。この世界で、お前たちは私に敵わない、指一本触れることも叶わない。さあ、もう帰れ。まさか死ぬまで鞠のように私に蹴られたいわけではないだろう」
判断は、レヴィルヴィアに委ねられた。それでもなお、
「チェルニィを返せ」
暁李は言った。三人分の痛みの何割かを帯びて、そう言う以外に選択肢はない。
「チェルニィを返せ。そうしたら、帰ってやる」
「暁李……、暁李っ」
レヴィルヴィアの身体は震えている、声ももう、ほとんど泣いているときのそれだ。その涙は、彼女の腕の中に戻るチェルニィが柔らかく温かく受け止めてくれると信じるからこそ、暁李はそう言うことを選んだ。
と。
「……何をぐずぐずしている」
重厚な声が、空間全体に響いた。
びくん、と震えたレヴィルヴィアが、
「父上!」
力を取り戻して叫んだ。




