猫と主と
暁李は愕然とした。
レヴィルヴィアも愕然とした。
月が煌々と光を降らせる砂浜の上、寝巻き姿の尊が、朝陽が、そして清継までもが、「魔法」の力を披露して見せてくれたのち、「ほれ、何をしておる、最後はそなたの番じゃぞ」とレヴィルヴィアにせっつかれて、……それはもう、先生に指名されて黒板の前に立たされてまごつく男児そのものの気分を味わう暁李に、
「……ひょっとして」
おそるおそるの声で朝陽が言う。「……暁李くん、魔法、使えないの……?」
「んなぁっ……」
レヴィルヴィアが飛び上がった。彼女は鮒月で愛用していたパジャマを持ってきて、しかしこれだと少々暑いのじゃとズボンの裾を膝まで捲り上げていた。
「なんっ、なんじゃとっ、そのような……、ええい待て、待て待て、いま妾が……」
立ち尽くす暁李のもとまで慌ただしくやって来て、両手で両手を取り、それからTシャツ越しの身体のあちこちをぺたぺたぺたぺた触り……、
「ば……、ばかな……! なにゆえ……、なにゆえ……」
この通り、レヴィルヴィアは愕然とした表情を浮かべて、叫んだのだ。
「なにゆえそなたは、なーんの力も手にせずやって来てしもうたのじゃー!」
恐らく先ほどあっちこっち触られたのは、身体に魔法の力が宿っているかどうかの確認作業だったのであろう、とぼんやり暁李は考えた。
「寧ろ、……逆に訊きたいんだけど……」
十年以上の付き合いの三人が当たり前のように魔法を使えている、という事態に、暁李は何とも言えぬ居心地悪さを覚えていた。「どうやって、やったんだ、さっきの……」
三者三様、とは言うが。
「えー、だから、こうやって……」
尊は両手を前に出して、ほーっと息を吐く。その掌が俄かに光を帯びた、ように見える。次の瞬間には、その光が膨らみ、僅かに弧を描いた板を形作る。
「これは盾、なんだろうね」
清継が言い、足元に視線をやる。小さな石を拾い上げて、ひょいとその光に向けて投じる。カン、とまるで金属同士がぶつかったような音を立てて、小石は砂の上に落ちた。
「……よいしょ、と」
光の盾は、案外に重たいものであるらしい。尊が腕を下ろすと、嘘のように光は消えた。恐ろしいものが襲い掛かってくることがあったとしても、それが何であれ、誰も傷付かぬよう守りきるための力、ということだ。ああ、そんな力があったらいいだろうな、と暁李はぼんやりと考えながら、いやそうではなくて、
「……で、それはどうやったんだ」
初歩的な質問を尊にぶつけた。
「どうって……、なんだろ、こう、手ぇ前出して、ふーって」
「ふーっていうのは必要なのか」
「どうだろ」
尊では話にならない。朝陽は、と見れば、その右手に軟式ボール大の光の球が握られている。続いて左手にもうひとつ、右の片方を宙に浮かべ、左手のものを右手に、それを宙に浮かべて……、お手玉である。目で追って数えてみたが、全部で五つ。気付いたときにそのすべては宙に浮かび上がり、高速で回転する光の輪となる。
「朝陽は器用じゃなあ……、見事な才能じゃ」
「そうなの……?」
「うむ、自信を持つがよい。そなたぐらいの歳で魔法を使いながら喋れる者などそう多くはないぞ」
少年の細い身体が仰け反り、しなやかに振りかぶった右手が鋭く下ろされた。宙に留まっていた光の輪が信じがたい速さで穏やかな眠りに就いていた海面すれすれを駆け抜け、百メートルか、あるいはもっと先か、とにかくずいぶん遠くで着水し、くぐもった爆音と水柱を上げた。
「朝陽、投げるときはもうちょっとこう、右手、耳の近くから出したほうがいい球投げられるぞ。あと投げるとき左肩開かんほうがいい。左手も使って、こう……」
「いいよ、野球じゃないんだから……」
では、清継は。彼は先ほど右手を発光させて見せた。それが具体的にどういったものであるか、暁李にはまだ判らない。
また右手を光らせて、
「朝陽と尊、こっち来て」
佐原兄弟を手招きした。暁李の視線の先、「尊、朝陽のこと抱っこして。おんぶでも肩車でもいい、二人でひとつになって欲しいんだ」とてきぱきと指示を出す。恥ずかしがりながら兄に抱き上げられた朝陽には安定感があって、やはり尊は腕ッ節についてはある程度のものがあるのだなと感心した次の瞬間、度肝を抜かれた。
「どっひゃ……」
清継が屈んだ。右手を後ろから尊の腰に回し、そのままひょいと立ち上がった。フランスパンを一本掴み上げる程度の力感で、朝陽を抱いた尊の身体は清継の肩の高さまで担ぎ上げられていた。目を丸くしているだけの朝陽に比べて、
「わ、わあ、せんぱっ先輩っやばい、やばいやばいこれやばいっす!」
尊は大いに騒がしい。
「はい」
すとん、と砂の上に下ろされた尊がそのまま尻餅をついた。言うまでもなく細身で背が低く、尊はもちろん暁李と比べたってずっと華奢な清継の見せた腕力に暁李は言葉を失う。レヴィルヴィアはぱちぱちと手を叩いて、
「うーむ、見事じゃ……。なんというか、力持ちのキヨというのは違和感がすごいが、それはそれとして、見事じゃ……」
とインプレッションを述べた。暁李としても概ね同意見ではあるが、
「どうやってんだ……、どうやって……、先輩……」
途方に暮れるばかりである。
「もー、そなたはどうするのじゃ、何の力も使えないとなっては……」
レヴィルヴィアにぷんと叱られたが、実際暁李には何の力も湧いてこないのである。
先ほども言った通り、暁李はただの一度も清継のことを「足手まとい」だなどと思ったことはない。しかるに、これでは、誰よりもまず暁李が思い切り足手まといである。
「大丈夫だよ」
清継はいましがたの怪力が全くもって信じられないほど、温和な笑みを浮かべて言った。動きを確かめるように、右手を握っては開いて、
「俺たちが暁李を守ればいい。……実際、そんなに物騒なことをしようっていうんじゃない」
普段通りの艶のある声であり、甘く美しい顔である。
「『勇者』を連れて帰ればいいんだ。……勇者がどんなつもりで、どんな事情でこっちにいるんだとしても」
レヴィルヴィアはまだ不満げではあるが、
「暁李は朝陽とレヴィルヴィアと一緒に俺の後ろに隠れてりゃいいだろ。それにさ、……なんつーか、ほら、知らない相手じゃねーじゃん? 先輩とお前とで説得したら、案外すんなり折れて『帰る』って言い出すかもしんねーし」
尻をはたいて立ち上がった尊の言葉に、ひとまず納得の頷きを見せた。清継も尊も夕方話した通り、少年の姿をした「勇者」こと暁李の父がレヴィルヴィアの認識とは異なり危険な存在ではないと結論付けたのだ。
暁李も、その点については同感である。
「……姿形が変わってたとしても」
口に出すつもりがなかった言葉を、舌が迂闊にも紡いでしまった。四人の視線が自分に向いて、今更引っ込めるわけにもいかなくなってしまった。
「……違う人間になったわけじゃないし……、一応、俺はあの人の息子なわけだから……、話は出来ると思うんだ」
「一応どころか」
清継が笑った。「暁李はあの人の息子だよ。……俺はだから、あの人と結婚したかったんだ。そうしたら、俺と暁李は親子になる」
ひやりとする言葉ではある。しかし、清継の内心にあるのが温かい真心であることは決して疑わない。
帰ろう、と言った清継に、全員が頷いた。レヴィルヴィアはまだどこか不満げである。
いや、彼女が惜しんでいるのだと判ったのは、続く言葉を聴いたときだ。
「……そなたは欲のないやつじゃな。せっかくそなたたちがあの村におる限りは手にすることの出来ぬほどの力を得られるというときに、何も望まぬとは」
暁李は答えかねた。何も望みがないわけではない、……欲しいものはたくさんある。しかし欲しいと思って得られるものがごく僅かで、寧ろ望むがゆえに失うものも多いことを暁李は知っているつもりだ。
清継を望んで失った暁李と尊である。暁李の父と結婚することを望んで、自身の右腕を失ったのが清継である。無論、全てが叶わぬ願いであるとも思わない。朝陽が兄と結ばれることを願い、その未来に向けて少しずつ歩み始めたことは、暁李にとっても希望である。
暁李がもし何かを願うとしたら、……これは、鮒月に帰って来てからずっと変わらない。
たった一つ、もう誰も不幸になりませんように。
初めは、……あの美しい人が。今は、先輩が、俺の友達が、友達の愛する弟が、何かを喪い傷むことのありませんように。
志が低いと言われるかも知れないが、暁李は現状維持を望むのだ。これ以上よくなることもない、しかしこれ以上、どこも悪くなることもない、……それで十分ではないか。この姿勢はレヴィルヴィアを酷く扱った自分の父親と対峙する者としては少々弱いのかも知れないけれど、暁李はどうにも、自分は何かを変えられるほどの力を持つに相応しい人間ではないと考える。
それを言うならばレヴィルヴィアのほうがずっと強いのではないか。
「はぁ……」
魔皇女は二人の寝室の窓辺、籐椅子に座り、物憂げに嘆息した。
「……ごめん」
暁李の言葉に、はっと顔を上げて、小さく笑みを浮かべて首を振った。
「そなたのことで溜め息を吐いたのではない。……誤解させてすまぬ」
一度も口に出して言って聴かせたことはないが、暁李はレヴィルヴィアが美少女であることを認めている。清継と出会う以前は当たり前に同世代の少女に恋をする少年だった。あの頃の自分の側にレヴィルヴィアがいたなら? ……それでも清継が現れたら心奪われていただろうか。金色の長い睫毛に縁取られているからか、イチゴジャム色の瞳が一層鮮やかに華やかに際立つ。ああ、こいつは、そうだな、華やかなんだな、目に限らず全体が。
だからこそ、少し哀しげな顔になると、俄かに日が陰ったように見えてしまう。この少女が動画配信を始めて、思いもよらぬほど多くの人間がそれを観ていると聴かされて、酔狂な奴が多いのだなという感想を抱いたが、今となっては何の不思議もない。レヴィルヴィアの相貌に人目を惹きつけるだけの価値があるということだ。
「妾が思うておったのは……、訳もなく嘆きとうなったのは、……そなたは嗤うかもしれぬが……」
この少女は時に滑稽だった、とてつもなく愚かだった。一言で「馬鹿」と括ってしまっても良かったかもしれないが、それではこの少女と約三ヶ月過ごして来た暁李にとって、あまりに救いがなさすぎる。
少しく迷いを見せた末に、
「……ぎゅーっとして欲しいのじゃ」
椅子から降りて、レヴィルヴィアはねだった。いいよ、と言う代わりに膝を叩いたら、するんとそこに収まる。この少女が来てまだ間もないころに、猫が来たようなものだと無理矢理に自分を納得させたことを暁李は思い出した。
抱き締めた身体のボリューム感は、猫としては大き過ぎるけれど、
「……ちょっぴり、心細いのじゃ」
それでもまだ、こうして膝の上に収めることがそれほど間違っていない気がする、いいや、安定感を持って抱き締めてしまえるぐらい身体のサイズに差があるから却って罪深いのか。ただレヴィルヴィアは、いい匂いがする。




