MPのない人
朝陽の背中が緊張したのが判ったし、暁李はもっとはっきり、恐れに似た感情を覚えた。空気が冷たく張り詰めたのは気のせいではない。尊のいびきがぴたりと止まり、向くりと起き上がるほどであったから。
こちらへ来た瞬間に明らかになった、清継の身体の変化を、いまのところまだ誰もきちんと指摘できていない。いま入浴中のぽんこつ娘でさえ、それを真っ向から言葉にすることは憚られるほどの衝撃があった。
「まあ……、ねえ」
電気のない部屋のあちこちには、暁李たちの見たことのない形の蝋燭が備え付けられていた。先ほど暁李がライターで灯してみたところ、驚くほどの光の強さと堅牢さを併せ持った炎が揺れる。日暮れが近づいて、レヴィルヴィアと朝陽が帰ってくる前に半数ほどを灯して三十分ほどが経過したが、蝋が溶けるスピードはとても遅い。
「あの子に、『夢』って言われて。……俺が考えたのは、みんなの足手まといになりたくないっていう、それだけだったんだ」
起き上がった尊の顔からはもう酒気は消えていた。灯火の光が、清継の長い睫毛の影をその頬に揺らしている。
「……清継さんのこと、『足手まとい』だなんて思ったこと、一度もない」
朝陽が、美しい人を見上げて言った。日焼けして赤くなった細い背中に、少年は凛々しさと緊張感とを背負っていた。「清継さんは、……兄ちゃんと、暁李くんの、……あと、おれと、たぶん、レヴィルヴィアの、……みんなの、真ん中にいるんだ。いるだけで、……それでいいんだ」
あ、という声を暁李が上げるより先に、「あっ」と尊が発した。清継の両手は優しく朝陽を抱き締めて、「いい子」タオル越しの頭に口付けた。つまるところ暁李が飲み込み、尊が飲み込みきれなかったその声に続きがもしあるとしたなら「いいなあ!」である。お前は自分の最愛の弟にどういうベクトルの嫉妬をしているのか、そう指摘する権利は暁李も持たない。
朝陽の言葉は、朝陽にしか紡げない。少年が幼い同性愛者として兄に恋をした理由は、兄と暁李が清継に対しての思いを永年持て余しているところを見てきたからである。しかし暁李は自分が少々思い違いをしてきたことに気付いた。朝陽は兄と共にあることを望み、兄こそ自分の世界の中心であると信じているに違いないと思い込んでいたが、兄も、そして暁李も、豊嶋清継が柱として存在する世界の住民であることを見抜いていたのだ。
いまだに尊が清継に恋をしているとは言わない。暁李自身も、自分の中にあるこの気持ちがティーンエイジャーの生々しい性の臭いを漂わせるものであるとは思っていない。もっと言ってしまえば、恋をしたせいで繋がれた頚木の類である。
暁李は自分と尊が朝陽の目に、愚かしくも幸せな男として映っていた可能性に思い至った。
清継の側にいると心地いいから、そこがどんな場所であれ居たいと願って、だから居る。……当然のことである、暁李だって尊だって、清継なしの人生が別にあったとして、そんなの真ッ平ごめんだ。仮令茨の道であれそこに清継が居るなら血にまみれたっていい覚悟で進んで進んで、この通り血だらけの凄惨な姿を晒して、それでも幸せそうに見えてしまう。だったら俺もそこがいいと、朝陽が選んで共に居る。
「お願いですから、足手まといだなんて言わないでください」
ごつい両手で自分の顔を擦って、僅かに掠れた声の尊が言った。「俺は、……暁李も、先輩のこと支えていくのが人生なんすよ。先輩が傷んだり、風邪ひいたりとか、そういうのないようにすんのが、俺らの人生なんすよ。先輩に右手がなかったとしたって、先輩が先輩じゃなくなるわけじゃないでしょ。先輩はずーっと、初めて会ったときからずーっと、先輩ですもん」
俺の友達は反射神経がいいのだなと暁李は思って、羨ましくなった。何と言おう、どう言おう、迷っているうちに全部言われてしまった気持ちであり、さっき尊が「あっ」と声を上げたとき同様に、ちょっと妬ましい。まるでそれは、先輩と何回目が合って、どれだけ話したか、彼がどれだけ笑ってくれたか……、一日が終わるたびその数を指折り数えて、あいつはどうだっただろうと思いを巡らす、無様で無邪気な少年のごときもの。
これはもう恋ではない。それでも、暁李と尊の世界は清継のものだ。どうやらとても素晴らしい世界であるらしいと、誰かの目に映ったとして、何の不思議もない。世界の中心に微笑みがあるならば。
「俺は本当にいい子たちに囲まれている、心からそう思って生きてるよ。本当は」
清継の両腕から解放された朝陽の、髪に隠れた耳は、紅く染まっているに違いない。我がことのように暁李には判った。きっと尊はあとで部屋で弟と二人になったとき、「なあ、なあ、どうだった、先輩、どんな匂いした」などと訊いて弟に閉口されることまで、暁李には想像できた。レヴィルヴィアがいつだったか「キヨはいいにおいじゃ」と言っているのを聴いて、そうだよな、と真顔で同意しそうになったから、これも我がことのように判るのである。
清継は自分の右手を見つめて、
「本当は、右手でなくってもよかったんだけどね。左手だけでも十分かなって思ったんだけど」
ぽつり、呟くときには一瞬、睫毛の先に物憂げな光を浮かべて、すぐにそれを瞬きで打ち消して彼は笑った。「でも、なくすときには本当に、何も感じないぐらい一瞬だったからさ。最後にね、この右手のある感覚を味わっておくのもいいのかなって。……足手まといって言っちゃったのは、訂正するよ。俺は自分に右手がなくっても、みんながいて幸せ、それは変わらないし、……ねえ暁李」
先輩に名を呼ばれると、
「はい」
未だに男子高校生に戻って、いい返事をしてしまう。きっとこれは死ぬまで直らない癖だ。
「暁李は、この集落の人たちが言ってたこと、どう思った?」
「何か変なこと言ってましたっけ」
尊が首を傾げる。彼の聡明なる弟は絨毯の上にタオルを敷いて腰を下ろして嘆息した。「あいつの言ってたのと、ここの人たちが言ってるのと、ちょっと違う。『勇者』はもっと、……こっちの人たちに、めちゃくちゃ迷惑掛けてるんだって思ってたから。兄ちゃんは酔っぱらってて聴いてなかったかもしれないけど」
あー……、と間延びした声を一つ挟んで、「……ああ! そう言えばそうだなあ」と尊が目を丸くした。
「あの子の話だと、『勇者』はもっと暴力的にこの国を支配しようとしたらしいね。確かに怪我をした人もいたとは言ってたけど」
この国の一大事を、どこか他人事として受け止めていた自分であったことを暁李は認める。それでもこうしてやって来ることを決めたからには、「戦い」というものを覚悟していた。しかるにこの世界はとても平和だ。こどもがはしゃいで遊び、大人たちはみなのんびりと暮らしているかに見える。「勇者」によって犯された恐怖、絶望、そういったものとは無縁である。
「ヴィヴィが鮒月にやって来たときと、事情が変わってるのかも知れないね」
まだ右手があることに慣れていないのかもしれない、本来右利きの清継は、右手をだらんと下げたまま左手で髪を掻き上げた。「それとも、……暁李は、ヴィヴィが嘘をついてるって思う?」
レヴィルヴィアは、そこまで頭の回るこどもではない。
「……先輩がいま言った、あいつがここを出たときと今とでは状況が違ってるんじゃないかって思います。その……」うちの親父が、という言葉を「『勇者』が」と言い換えるとき、僅かに暁李の胸は捩れた。「最初は、ここの人に怪我させて、レヴィルヴィアの住んでた……、お城? を自分のものにしたっていうのは本当だとして、……あと、レヴィルヴィアにあのカッコさせて働かせてたってのも本当だとして、でも、それ以上のことはしてないんじゃないかって」
どこかで、そうであってくれたらどんなにいいか……、と暁李は願っている。どうかこれ以上、人間として恥を晒さないでくれよ、と。
「……『勇者』がなに考えてるのかも、正直なところよく判らないよね」
朝陽が暁李に向ける視線は慎重だった。「この島って、……たぶん、すごくちっちゃいよね? 魔法使えるのはすごいなって思うけど、でも、この世界の人ってみんな魔法使えるんでしょ? だったら、……なんだろ、変な言いかたかも知れないけど、おれだったらね、……こういう、異世界で、自分がすごく強くって、どこかの王さまになっていいよって言われたら、もっと立派な……、裕福でさ、何でもあって、便利な国の王さまになるほうが得なんじゃないかって」
「あー……、そうだなあ、せっかくすげー力あるんだったら、どうせならでけーとこ狙うほうがいいよなぁ……」
「それは尊らしいね。小さいところで満足するのが、あの人らしいとも思うけど」
清継の苦笑に、暁李は何も言えなかった。
「もしくは。……ここを足掛かりに、海の向こうの他の国へ……、そんなだいそれた考えを持ってる可能性もある」
清継の言葉の途中で、
「はー、いい湯であった……」
レヴィルヴィアはまた下着同然の格好で出てきた。「うお」と尊が声を上げ、清継と朝陽は溜め息を吐く。暁李に関しては彼女の肌はそろそろ見慣れてきたと言っていいレベルで、もう気にも留めない。
「もう……」
「ニャニャニャッ……、キヨ、キヨ、くしゅぐったいのじゃっ」
「兄ちゃん」
「あー、うん、浴びてこようか」
タオルの隙間から顔を覗かせて、「二人のほうが入りいいぞ。そなたらの世界の風呂のように便利ではないゆえな。片方がポンプをしゅこしゅこやっておるあいだにもう片方が浴びるのじゃ」とバスルームに向かう兄弟に説明を加えた上で、
「まったく、妾も暁李といっしょに入ればよかった。そのぶん、キヨは暁李と入るとよい」
などと言う。平気な顔で爆弾を投じてくるレヴィルヴィアに、嘘なんてつけるはずがない。清継は苦笑して、
「せっかく両手使えるんだから、一人でいろいろ体験させてもらうよ」
屈託なく返す。レヴィルヴィアは「それもよかろう」と頷いて、両手でぎゅーと清継に抱き着いた。
当然彼女にはそうする権利があるのだ、朝陽同様、無垢なこどもであるから。清継は彼女のことを、まだ湿っぽい髪ごと抱き締める。
「ンフー、ンーフフフン」
どれだけ満足しているのか。猫ならば盛大に喉を鳴らしているであろうレヴィルヴィアは、鼻と頬を擦り寄せる。朝陽がこれを見ていたなら、「おれもやっとけばよかった」と思うだろうか? 羨ましい気持ちを朝陽に託したところで何もなるまいと理解しながら暁李は妬む。先輩のほっぺたどんなだった、レヴィルヴィアに訊くことだけは避けようと思い決めても、それが何になる。
「キヨに右手が生えておるのを見て、……妾は、正直ちょっとビックリしたのじゃ。でも、……うむ、悪くない。こうしてキヨにぎゅーってしてもらえたのじゃ、妾はとても幸せなのじゃ」
両手でレヴィルヴィアの髪を撫ぜて、清継は美しい微笑みを少女に独り占めさせる。
「ありがとうね。ヴィヴィと出会えてなかったら俺は、この感覚をずっと忘れたままだったよ」
「ンフッフー、妾はそなたたちに救い出してもらったのじゃ、これぐらい何でもない……。ときに、キヨ、そなたはどんな力を望んだのじゃ。夕ごはんのあとに妾にそなたの力を見せて欲しいのじゃ」
うん、と当然のように頷く清継を見て、暁李は小さく「え」と声を漏らしていた。
右手だけではないのか、と思ったし、望みの「力」と言われて、暁李には実のところこれっぽっちもピンと来るものがなかった。
なんだか、人生で何度かこんな気持ちを抱いた経験がある。
二三日学校を休んで出て来て見ると、そのぶん授業が進んでいて、自分の知らない公式を皆が当たり前に使いこなしていて、心細い気持ちになった。トラウマとまでは言わないが、その経験が自分の中に根を張っていることは確かだ。骨折による入院をしたときには、それが中学卒業直前という、ろくな授業もない時期でよかったと思ったものだ。
「暁李は?」
清継に訊かれて、同時にレヴィルヴィアに振り向かれて、暁李には返す言葉がなかった。沈黙を、
「勿体ぶりたいのじゃな」
都合よく解釈してくれた。
「暁李はだいたいそうだよね……」
「そうなのか?」
「うん。……暁李のお父さんのことがあったときも、尊や俺には何も相談はなかったもの。だからびっくりしたんだ、まさか本当に会社を継ぐなんてね」
そうしないわけには行かない状況だと思ったからそうしたに過ぎない。父が清継の人生の一部分を奪って死んだのだから……。
「尊も驚いてたんだ。でも、『暁李が決めたことだから俺は従う』ってさ、あいつを支えて行くって」
そんな言葉、一度だって尊は言ってくれたことはない。都心で同じ仕事をしていたとはいえ、ここでは洗車から整備の数々も全部自分たちでやらなければならない。高卒で入社したときにはまだ普通免許だって持っていなかった尊だが、そういった作業についてはもう暁李の「先輩」で、ずいぶん親身になって世話を焼いてくれたものだ。無論、経営という方面では腕を失った清継が支えてくれた。金の計算は苦手、というか出来ればあまりしたくないと考えるような劣等経営者の暁李の代わりに、会社に復帰するなり資金繰りに奔走してくれたのは清継である。
魔法のことはどうあれ、あの当時の自分に選択の余地はなかったと暁李は振り返る。仮に自分が継がなければ、早晩鮒月バスは倒産し、ほとんどが交通弱者であるあの村の人々の暮らしは立ち行かなくなる……、そういう社会的責任感もないではなかったが、それ以上に、自分の父が犯した罪をあがなうためにこそ、石にかじりついてでも「会社」を守らなければならないと思ったのだ。
誰かに相談すれば、助けを求めてしまっただろう。弱音を吐いて、逃げ道を探してしまっただろう、とも。仮に清継に許しを乞うていたなら? 優しい人は既に「暁李が悪いんじゃない」という言葉で暁李を救っただろう。加えて自分の辛さを吐露したなら、彼はきっと、暁李が鮒月に留まり根を生やすことをせずに済む言葉だって贈ってくれたはずだ。
「妾の夫は責任感が強いのじゃな」
レヴィルヴィアが立ち上がって、絨毯の上にあぐらをかく「夫」の髪を撫ぜる。「しかし、あんまり抱え込むのも身体によくなかろう。会社にはキヨも尊も朝陽もおるのじゃ、あと、そなたが休みの日にハンドルを握る運転手もおるのじゃろ、えーと、なんじゃ、ごはんを食べるところみたいな……」
嘱託、と清継が小声で助け船を出した。「おお、そうじゃ、食卓さんもおる。そなたが守っておる会社に守られておる人々がいっぱいおることは、短い時間とはいえ乗客と接してきた妾にも判るぞえ」
保護者という損な役回りを押し付けられた……、という認識でいたはずなのに、レヴィルヴィアの小さな手のひらが鬱陶しいとは感じられなくなってしまった。
ずいぶん早く佐原兄弟が出てきた。パンツ一丁の朝陽はいいとして、腰にタオルを巻いただけの尊を見て、
「これ! レディの前でなんというかっこうじゃ!」
レヴィルヴィアが偉そうに叱った。その後、暁李、清継の順にシャワーを浴びてくるうちに日が暮れて、夕飯の支度ができたと集落の長が呼びに来てくれたもので、レヴィルヴィアの「勇者」の認識について問うことは出来なかった。




