清継の右手
レヴィルヴィアによって導かれた異世界の海岸近く、漁師を生業にする者たちの集落に辿り着いたのは、現地の時間で恐らく正午近くであった。とにかく陽射しが強く、もちろん気温も高く、冬の格好でやって来た一行は着てきた服の大半をもて余して歩くことになり、その中にあって、いちばん多くの弱音を吐き続けたのは、
「あっつい……、あっついのう……、忘れておったわ……、こちらはいま、真夏なのじゃ……、のどがかわいたのう……」
この世界に慣れているはずのレヴィルヴィアであった。
海は凪。空へと溶けようかという水平線を見やれば、可愛らしい小舟が何艘も浮かび、列を成してじわりじわりと陸へ近付いてくるところだ。網を曳いて漁をしているものと思われる。木と石で出来たのどかな、……はっきりと言ってしまえば貧相で前時代的な家々の輪郭が近づいてきたところで、
「魔皇女さま……?」
「魔皇女さまだ!」
波打ち際で下着同然の格好で遊んでいたこどもたちに見付けられた。
「あちゅいーのじゃー」
と暁李の背中でへばっていたレヴィルヴィアがこどもの声に俄に蘇り、「おお!」暁李の背中から飛び降り、「久しいのう、元気でおったか!」声を弾ませる。
「へー……」
尊が声を漏らした。「マジで『魔皇女さま』だったんだな……」
スニーカーの底に溜まった砂のじゃりじゃりいう不快感、陽射しに焼けた鼻の頭がひりつく痛み、そして汗を吸って、特に背中に張り付いたシャツの重さ……、現実と否応なしに向き合わされてもなお、ここが異世界だという感覚を得るには至っていなかったのは暁李だけではなかったのかもしれない。
いや、ここが異世界であるという現実の象徴から目を背けていたく思っているのが、暁李以外にもいた、ということであろうか。先ほどから尊が清継のほうを見ないようにしているのは明らかだったし、それは朝陽にしても同様だ。
清継に右手が生えている。言ってしまえばそれは、美しい人が悲劇に見舞われることがなければ、というイフの姿である。彼がなぜ右手を取り戻したかを考えれるだけで、暁李は胃の内壁に爪を立てられる痛みを覚えないわけにはいかなかった。
レヴィルヴィアに似てよく陽に焼けたこどもたちによって導かれた集落にて、思いもよらぬ歓待を受けた。獲れたての魚を椰子に似た背の高い南国植物の大きな葉で包んで焼いたもの、小麦ではなさそうだが粉を練って焼いた素朴な味のパンのようなもの、……乾いた喉はココナツに近い石のように硬い殻を持つ木の実を割ったところから溢れるジュースで潤った。
集落の人々は皆異邦人に対して好意的であった。その理由については、この集落の長という壮年の男性がこう語っている。
「魔皇女さまは昔からよくここへお見えになって、最近では我々が漁に出とる間にこどもらの遊び相手になってくださって……。それなのにほれ、城にあの勇者がやって来たでしょう、魔皇女さまが城に幽閉されて自由を失ったと聴いて、皆心配しておったんですよ」
歓待の食事の半ばにはもう、レヴィルヴィアは朝陽を連れて席を立ち、外へ出ていって、集落のこどもたちと一緒に遊んでいる。これは車掌の仕事をしているときから見ていて判っていたことではあったが、レヴィルヴィアはこどもに好かれるのだ。剽軽で、歳の上下関係なく接するところがこどもから見れば嬉しいのだろう。
「勇者は、ここの皆さんにもご迷惑を掛けているんですか」
暁李は清継が「勇者」と口にするとき、緊張を催す。
集落の長が首を微妙な角度で振るのは、少し意外なことであった。
「まあ……、そうですなぁ……。魔皇女さまが来てくださらなくなったのは迷惑……、そう、迷惑というか、残念なことではありますが」
「彼女が住んでいた城のほうでは、勇者が攻めてきたときに戦いがあったと聴いていますけど」
清継が重ねた問いに、集落の長は斜めに頷く。
「それは、まあ……、ええ。ちょっとした騒ぎになって、怪我をした者もいたようですな。ここの住民の中にも、家族が都で兵士をやっている者がおりますが、暇を与えられてしばらく療養しておりましたから」
ここまで言って、長は白いものの目立ち始めた顎髭を指で摘まんで、少し不思議そうな顔で問うた。
「皆さんは、魔皇女さまのお付きでいらっしゃいますな。その、ちょっと信じられませんが、遠い『異世界』からこっちへいらしたと。……いったい、なんのためにわざわざ、危険を冒してまでこんなところへ? いえ、もちろん我々は、魔皇女さまがお元気でおられたことが判って、それはもう、嬉しく思っておるんですが……」
暁李と尊はぽかんと口を開けて顔を見合わせた。尊は酒でずいぶん顔が紅くなっているが、表情からは俄に酔いが覚めていた。
清継だけは表情を変えず、「そうですか」と柔和な微笑みを浮かべて言った。
「いまのところご迷惑になっていないのなら、それは何よりです」
異世界から各自が持ち込んだ「夢」に基づく魔法の力にも習熟しなければならないし、どのみち酒が入ってしまっては軽率に動くことも避けるべきだ。一行は集落でいちばん大きい家を貸し出された。三部屋、つまり清継、佐原兄弟、そして暁李とレヴィルヴィアのための寝室があり、貴婦人の座るような籐の椅子やら、見たこともないほど鮮やかな毛足の絨毯やら設えられた立派な家である。
明日の朝、ここから歩きで三時間ほどという都へ向かうことを決めた。清継が長に頼んで見せてもらった地図を、暁李も一緒に覗かせてもらったが、想像していた以上に小さな島である。ほぼ中央、弧峰を北の背にして都があり、その向こう側は複雑な海岸線、恐らく急峻な崖となっている。ここのような集落は島のあちこちに点在し、そのほとんどが南側の海岸線にあり、街道で都に繋がっているらしいが、どこも都からの距離は大差ない。大雑把な計算ではあるが、東京都の区部とおよそ同じ程度の広さであろう。そこに、推計するに一万人には遠く及ばない人々が集落に肩を寄せ合って暮らしているというのだから、何とものどかな話だ。
この通り熱帯の気候であるが、水には困らず、豊かな海の恵み、盛んに行われている果物や野菜の栽培によって、決して裕福とは言えないが日々の食べるものに困ることはないという。魔法の力について訊ねてみたが、「まあ、人によって得意不得意のあるもんですし、そんなに使うことはありませんなぁ」とのこと。長はこの集落でいちばんの魔法の使い手という老婆を呼んでくれたが、彼女はもう足が悪くて自力では歩けない枯れ枝のような女性であって、耳が遠かった。嗄れ声で「まあ、わしは大風や嵐が吹いたときに、家が吹き飛ばんように守ってやるぐらいのことじゃな」という答えを得るのに結構な時間を要してしまったが、他にも収穫した魚や野菜が長持ちするように冷凍保存したり、こどもが転んで拵えた擦り傷を治してやったり……、総じて日々の暮らしに実用的な魔法を操る力がこの世界のひとびとには備わっているようだ。
穏やかな海に囲まれ、最寄りの大陸まではもっとも質のいい船を出しても一昼夜掛かる。大陸のほうにはどうやら別の国があるらしいが、その国でどんなことが起きているかは誰も知らない。「ひょっとしたら言葉が通じない可能性もある」と清継は考察した。ここが小さな島に過ぎず、また自給自足が成り立っているので、新しい世界との交流に考えを巡らせる必要がないのであろう……、と酔って心地よさげに高いびきの尊を見遣りながら思ったところで、
「ニャハー、久しぶりにいっぱい遊んだのじゃ……」
レヴィルヴィアと朝陽が帰ってきた。二人とも、この島のこどもたち同様に下着姿である。朝陽は男児であるからいいのかもしれないが、レヴィルヴィアは……。
「女の子が何て格好」
当然のように清継に咎められる。「頭にワカメまで乗っけて……」
「妾はこどもゆえ」
「こどもゆえ、じゃなくって…….。こどもだけどヴィヴィは女の子でしょう」
朝陽はさぞかし恥ずかしかったのではあるまいかと想像するが、「もう慣れた」と疲れた声で言った。「水着とかそういうの、ないんだって。だから海で遊ぶときは、こどもはみんなこういう格好で。……みんな脱いでるのにおれだけ服着てるのばかみたいだし、泳ぎたかったし……」
「このまま朝陽と風呂に入るのじゃ」
「お風呂は別々にしようね。……あと、ワカメは捨てておいで」
レヴィルヴィアが異性の前で着替えることに何ら抵抗感を抱いていなかった理由には納得が行った。それがいいことなのか悪いことなのかは判然としないが、おおらかな話である。彼女が浴室(先ほど暁李も借りたが、外のタンクに溜まった真水を沸かし、人力のポンプで水を汲み上げてシャワーを使うという、少々疲れるものであった)に入って行く背中を見送りつつ、朝陽の髪を鮒月から持ってきたバスタオルで拭いてやる清継は、
「……やっぱり両手あるって便利だね」
少し寂しげな微笑みを浮かべて、ぽつりと言った。




