勇者が、誰であったとしても
レヴィルヴィアの動画の撮影を行って家に戻ったのは夕方近く。カメラマンとしてスマートフォンで撮影していた暁李の前で彼女は、いつかのようにパンツの色を自ら暴露するようなヘマはすることなく、「実はのう、『魔皇女ちゃんねる』は今回でいったん最終回なのじゃ。でも、きっといつかまたこうやって鮒月の魅力を、まあ、そんなにいっぱい魅力があるわけでもないが、でも、妾はここが大好きゆえ、皆の衆に届けていくでのう、楽しみに待っておれ!」と言うべきこともきっちり言った。
家に着いたとき、清継は夕飯の料理をしているところで、二人が一緒に入浴したことをすぐに言い当てた。無論、彼は根掘り葉掘り詮索するようなことはしなかったが、暁李が「あそこに温泉が湧いてるってことをいつ知ったんですか」と問いを向けても「もうだいぶ前だよ」とはぐらかされた。
「あんまり足元いい場所じゃないと思いました。だから、その……」
あなたに何かあったら、……あなたの身にこれ以上何かあったら。口ごもっても暁李の言わんとするところは伝わってしまっただろう。
「月に一度ぐらい、細かいこと気にしないでぱーっとしたいとき、暁李にもあるでしょう」
そう言われてしまうと、暁李にはもう、言葉を継ぐことは出来ない。突っ立っているうちに、清継はいつもながら左手一本で器用に大根の煮物を仕上げた。尊と朝陽が帰ってきたら夕飯である。
「うーん、いい匂いじゃ……」
清継の前では最初から最後までおりこうさんでいたいと願う少女は手洗いもうがいもきちんとして、まだ朝陽が帰ってきていないので、代わりに率先して箸や茶碗を並べて彼のお手伝いをする。レヴィルヴィアがあちらの世界に帰り、朝陽も中学に上がった次の春からは、清継は完全に一人でこうした家事をこなしていかなければならなくなることを考えると、暁李は憂鬱になった。限定的な時間とはいえ自分の妻である少女の存在が、つかのま鮒月バスのスタッフたちのQOLを高めていたことは言うまでもない。無論、暁李も尊もこれまで以上に清継のことを支えていくつもりであるが。
「明日はヴィヴィの好きなものを作ってあげる」
「おお、まことか!」
「ずっとお手伝いしてくれたし、ずーっといい子だったからね、特別だよ」
実質、これがしばらく続いていた日常の、最後の夜ということだ。四人の男はいずれも自分から積極的に口を開く性格ではない。色合いとしても鮮やかなレヴィルヴィアが咲かせた花の余韻を感じるたびに、きっと全員が白熱灯の照らす質素でありつつも豊かな食卓に、言いようのない寂しさを覚えるのだろう。
「ん、そうじゃ。明日がごちそうなら、今夜のうちに話しておく必要があろう。……他でもない、そなたたちを連れて明後日に『黄昏の国』へと赴いた後のことじゃ」
「武器とか要るの?」
いちばんに興味を示したのは朝陽である。現在進行形でファンタジーの世界に親しむこどもの、「鎧とか兜とかそういうのは? あと、おれたちは魔法使えないけど、そういうのは?」矢継ぎ早の問いに鷹揚に頷いたレヴィルヴィアは、
「結論から言うならば、そういったものは必要ない」
と断言した。
「ってことは……、特に持っていくものは要らねーのか」
拍子抜けた尊に「うむ」と頷く。
「武器ならば、向こうでいくらでも調達できる。それに、恐らくはそなたたちも魔法を使えるようになる」
暁李は突如レヴィルヴィアの国に現れた「少年勇者」が何の変哲もない人間の少年であり、そのくせ大人が束になっても敵わない恐ろしい力を持っていたという情報を忘れていない。
「……おれたちも、レヴィルヴィアのほうに行ったら強くなれるってこと?」
訊いた朝陽に「まず間違いなく」と重々しくレヴィルヴィアは首肯する。
「あやつがこちらの世界の人間であったことは間違いない。何とも憎たらしいことに、こちらの世界の人間は妾たちのほうへ来ると、とんでもない強者と化すようじゃ。どうもそれは、……むう、自分で言うのも何だか抵抗があることではあるのじゃが……、『夢』というものが関わって来るのではあるまいか」
ゆめ、という単語、四人の男の口から小さな呟きとしてレヴィルヴィアの耳に返った。眠っているときに見るアレか、という尊の問いに、彼女は首を振った。
「ではなくて……。こちらの世界では到底叶わぬ願い、……自らの力ではどうすることも出来ぬものを欲する思いが、世界と世界の境界線を超える際に叶うのではなかろうかと妾は考えておる。事実、あの憎たらしい勇者は『あんな世界はもう嫌だ』と願ったと申しておった。『すべてが自分の思うままに動かせるほどの力を得られる世界があったなら、どんなにか幸せだろう』……、そんな願いを携えて境界線を超えたがゆえに、あれほど恐ろしい力を持つに至ったのではないか」
それは、ぽんこつの考えるところにしては妥当である、という気が暁李はした。もちろん、「世界の境界線」なんて概念は暁李には不慣れなものではあるが、こうしてレヴィルヴィアが存在してしまう以上は、もうそこをとやかく言うフェーズではない。
「つまりじゃ。そなたたちが転移する際には、それぞれが、自身の欲するところを強く強く胸に思い描くことが重要なのじゃな。……無論、それは再びこちらの世界に戻って来たときには消えてしまう、あくまでかりそめの力じゃ。それでも勇者と戦うぶんには全く問題なかろう。」
となると、本当に何の準備も要らないということだ。出来ることと言えば、それぞれが胸の裡と向き合って、具体的に思い描くこと、……あとは明日の晩に、たっぷり、しっかり、睡眠をとって体調を整えておくことぐらい、であろうか。
「力……」
「力、なぁ……」
朝陽と尊は自信なさげに顔を見合わせる。尊は思い付いたように、
「なあ、空飛べるようになったりする?」
朝陽よりももっと幼いこどものごとき言葉を、目を輝かせて訊く。むー、とレヴィルヴィアは腕組みをして、
「さすがにそれはどうかのう……、妾たちも魔法を扱えはするが、空を飛べるのは鳥やコウモリだけじゃ」
と答えて尊を失望させた。
「兄ちゃん、空飛びたかったの……」
「だ、だってさ、いいじゃん……、空飛べたら……」
「そも、飛べたところで何にもならぬ。それよりももっとこう、現実的に勇者を打倒するための力をイメージするのじゃ」
存在そのものが虚構の産物みたいな少女にそんなことを言われて、尊は少しくふてくされた。
一応、暁李は(妻の手前、少々控えめにではあるが)転移に伴うリスクについて、今日起きたことを含めて三人に伝えた。
「……大丈夫なの?」
朝陽は心底から不安そうである。「ちゃんと……、帰って来られるんだろうね? いや、そもそもちゃんと向こうに着けるの?」
レヴィルヴィアはむーっと唇を尖らせて、
「昼間のあれは、その、まだ妾がこちらの世界で不慣れであったからじゃ……、あちらで妾は十年以上も暮らしておったゆえ、あのようなことにはならぬ!」
憤然と主張する。ここまでは想像していた通り。
「大丈夫だと思うよ」
清継は、穏やかに言った。「ヴィヴィはちゃんとここと向こうの一往復をやってくれるよ」と、このぽんこつのどこに一体それほどの信頼を置く要素があるのかと思ってしまうが、清継にそう言われれば「まあそうだよな」と思うほかない。
「それよりも、勇者がどんな男なのかもうちょっと具体的に教えてほしいな。こどもって言ったけど、どれぐらいの? 朝陽と同じぐらい?」
んむ、レヴィルヴィアが頷く。
「そうじゃな、妾や朝陽とさほど変わらぬ、まだ声の高い男のこどもじゃ。しかし……、これも前に話したかのう、本当はあやつは、こどもではない。恐らくあやつがそういう身体になることを望んだのじゃろう」
元々「一国一城の主」であったと勇者は自己紹介している。「一国一城の主」と言えば、暁李もそうであることにレヴィルヴィアは気付いたのか、「その点においてはこちらも全く格落ちしないのう」と満足げに言った。
共通認識として「少年勇者」という像があるものだから忘れがちであるが、その実態が大人であることは常に頭に入れておかねばならないだろう。いい大人が異世界でこどもの身体を手に入れて、一国の征服をするなど、なんと情けない話であろうかと、初めてレヴィルヴィアから「勇者」の話をされたときと同様に、大いに呆れた。
「身の丈は、朝陽よりちょっと高いぐらいかのう。ひょろりと痩せておって、ゆえにとても腕が立ちそうには見えぬ。肌は白うて、髪は朝陽よりずっと短い、そうじゃな、大人にしたら尊ぐらいか」
「名前は?」
清継の問いに、「判らぬ」とレヴィルヴィアは首を傾げた。
「そも……、あやつのことを妾が『勇者』と呼んでおるのは、あやつ自身が自分のことをそう申しておったからじゃ。それゆえ、あやつの名は誰にも判らぬ。あやつも人の名を覚えようなどとはせず、妾のことも『お前』とか『そこの』とか申すのじゃ、……むー、あやつのことを思い出すと何だか腹が立ってくるのう。とにかくじゃ、そなたたち四人が揃えばあんな勇者などこてんぱんじゃ! こちらの世界へ連れ帰ってしまえば勇者もただの人に戻る。あとはもう、……そなたたちには手間を取らせることにはなるが、どうにか、どうにでも、してくれればよい。そして妾は……、うむ、きっとまたこちらを訪れよう。父上はきっと妾を見直して、ひょっとしたら王位の禅譲さえしてくれるかもしれぬ。そうなれば妾は『魔皇女』ではなく『魔女皇』じゃ、ンフフン、やまほどの礼を持ってそなたたちに会いに来よう!」
明日の仕事もあるからと、それぞれ部屋に引き上げて、パジャマに着替えたレヴィルヴィアが「暁李」と布団の上で待っている。これではまるで、本当に新妻が出来たようである。甘ったるいのは好きではないが、彼女にとっても残り僅かな時間、「およめさんごっこ」に付き合ってやるのも悪くないかと思い直して、膝に乗せて抱き締めてやって、
「……勇者がどうにかなったら、そなたはきっとこちらでまた元の通りバスを運転して働いて働いて過ごすのじゃな」
ぴったり抱き着いた少女は言う。
暁李が「社長」としてやっている仕事はたいしたものではないが、それでも誰か一人でも欠けてしまっては、鮒月バスは立ち行かなくなる。鮒月バスがなくなるということは、鮒月村の足がなくなるということである。学校に通うこどもたち、病院に行かなければいけない老人たち、酸素のように鮒月バスを必要としてくれている人々のためにも、レヴィルヴィアが言った通り働いて働いて過ごしていかなければならない。
もちろん、レヴィルヴィアがなぜそんな当たり前のことを改めて言ったのかは判っている。
「また来るんだろ」
車掌として、メイドさんの服を来ているときにはポニーテールにしている後ろ髪はいま、彼女の細い背中にまっすぐ垂れている。背中の華奢さとまっすぐな髪のサラサラ加減を、やがて懐かしく思う自分を、暁李は想像できてしまった。
「あちらに帰っても、妾は婿をとるようなことはせぬ。……妾の夫は、ここにおるのじゃ」
平然と言う。心の中にあるものを、ひょいと取り出して暁李に見せるとき、レヴィルヴィアの紅い目には真実の光が灯っていた。
膝から降りた彼女は暁李の両手を両手で取って、
「……そなたには、話しておこうかのう……、あまり、知られたいことではないし……、その、妾は出来れば、カッコいい魔皇女でいたいと思うゆえ……」
「あんまり『カッコいい魔皇女』って思ったことはないけどな」
「んぐ……、ま、まあよい……。カッコ付けておるのは疲れる、夫の前でまでそんなのはしとうない」
小さな手のひらが、暁李の両手を包んで、
「……父上は、あんまり妾のことが好きではないようなのじゃ」
と寂しげに呟いた。
「……好きじゃない?」
「ん。……妾は母上のように美しうなく、父上のように強くもなく……、王権を継ぐには相応しくない、駄目な娘であったゆえ……、妾はそなたがしてくれたように、父上にぎゅーっと抱き締められたこともない、頭を撫で撫でされたこともない……」
想像が当たった。ちっとも嬉しいことではない。レヴィルヴィアの頬は冷たい悲しみに強張っていた。
「……しかし、よう考えたらこんな話はするべきではないのう。そなたは父君を亡くしておるのじゃ」
レヴィルヴィアは眉間にしわを寄せて微笑んだ顔を上げた。小さいくせに、あやすように、励ますように、暁李の頬を撫ぜる。「ンフフ、ちくちくしておる」と、この時間にはもう伸び始めている無精髭の感触を手のひらに受けてくすぐったそうに笑った。少々迂闊に過ぎるとは思ったが、その微笑みを、可憐であると反射的に暁李は定義してしまった。
「そなたは、偉いのう。父君を亡くしても、こんなに立派なのじゃ。そなたの父君もきっと鼻が高かろう、天国できっと微笑みながらそなたを見ておるぞ」
今日まで気付かなかったふりをしていたことである。そうすることでどれほどの沽券が保たれると言うのか、……単に、自分が幸せになってしまうと思ったからであろう。
理由はどうあれ、俺のおよめさんの少女はとても優しいのである。清継に右腕がない理由、そこにまつわる暁李と尊の思いを知ったときも、朝陽の中にあって尊に向かう気持ちを知ったときもそうだった、……彼女はたくさん持ち合わせた中から選び取るのではなく、ただそれだけしか持っていない言葉を素直に口にしただけ。どれも、優しく温かいものだ。
レヴィルヴィアの「父上」は、そのことに無頓着なのだろうか?
あんたの娘は、とてもいい子ですよ。明後日、そう言ってみようかと暁李はふと思った。そうすることが可能なだけの時間があるのなら……。
「そういえば、そなたが妾ぐらいのころにはどんなこどもだったのじゃろう」
レヴィルヴィアは壁の本棚の最下段に目を向けて言った。そこにはアルバムが収まっている。清継の高校時代の写真を見せてやった後にしまったままである。
「……別に、どうってことないぞ。先輩みたいに綺麗だったわけじゃないし、朝陽みたいに可愛くもない」
「それはだいたい想像できる。しかるに、のう、知りたいではないか、夫がもし、妾と同じぐらいの歳であったなら……、と」
いい顔をしている、と褒められたのもずいぶん気恥ずかしかった。この上こどもの頃の自分の顔をとやかく言われたらどうなってしまうんだろう。そういえば、まだ自分の喉が滑らかで声の高かった頃の写真は清継にだって見せたことはない。逆に、清継がどれほどの美少年であったかは、見てしまうとまた色々なことを考えてしまいそうだから、見ようとは思わなかった。きっと尊も同じだろう。
アルバムの、最初のほうのページを開いて、……まだ捨て損なって残っていた父の写真に目が留まった。鮒月駅前で、母と並んで写っている写真だ。どうしてこんな写真があるのだろう? みどころの少ない田舎村ではあるけれど、せっかく夫婦で撮るなら場所を選べばいいのに。明らかにアングルもおかしくて、ピントが甘くて、……考えを巡らせてしばし、ああ、これは俺が撮ったんだと気付く。父にせがんで、お父さんとお母さん撮ってあげる、高い声で言って。
「ほほー……、これがそなたの父君と母君か。父君はなかなか男前じゃのう、そして母君はとても優しそうなお顔をしておる」
まだ、似ていないな、と少しおかしくなった。
あと十年ぐらいして、このときの父と母の年齢に近づいたなら、もう少し似てくるのだろうか? 母が存命のころ、折に触れて「あんたはお父さんにそっくりねえ」と繰り返し言っていたことも思い出されたが、そんなことはないでしょう、と。
「して、そなたのこどものころの写真はどこじゃ」
父の写真を処分する際に、自分のこども時代の写真もいっしょに抜いてしまった。先程の写真が残っていたのは、母が写っていたからで、だからこの時代の写真はどれも母が写っているものばかりだ。一枚ぐらいは捨て損ねていなかっただろうかと何頁か捲って、ようやっと一枚、見付けることが出来た。
こまっしゃくれたガキが、同じく非常に鼻持ちならない面構えをした尊と並んで、小学校の門の脇に咲いた桜をバックに並んで写っていた。二人の傍らにはそれぞれの母が一緒に写っていて、だからこの写真も残っていたのだろう。二人揃って黒のスーツを着ていて、しかし一目見てわかるぐらい尊のそれのほうが高価である。
これは、小学校の卒業式のときに撮られたもの、だから暁李も尊も、いまの朝陽やレヴィルヴィアと同い年ということになる。尊もきっと同じ写真を持っているはずだが、彼がこんなふうにプリントしたものをアルバムに残してあるかどうかは判然としない。まだ朝陽も、清継もこの村にはいない時代で、代わりに尊の母はとても美しく幸せそうな顔、暁李の母も、まさかこの翌年に亡くなるなどとは信じられないほど健康的だった。
切なくなることを止めることは難しい。しかし、温かな過去である。
しかし暁李は、レヴィルヴィアが表情を戸外の空気より冷たく凍てつかせてその写真を凝視していることに気付いた。
視線の先にあるのは、十二歳の暁李の顔である。この少女の愛する清継の少年期が、原石どころか既にしてダイヤモンドの輝きを纏ったものであったに違いないことは、改めて見て確かめるまでもないことであり、それに比べれば確かに、褒めるところを探すのが大変だろうというのは判るのであるが。
レヴィルヴィアの口から、
「ばかな……」
ぽつり、そんな言葉が漏れた。彼女は両目を見開いて、おずおずと暁李を見上げて……、また、ぱたんとアルバムの写真に視線が落ちる。それはまるで、重力に負けたように。
彼女の視線は、幾度か暁李の顔とアルバムの写真とを往復して。
やがて、その紅い目いっぱいに、涙が浮かぶ。彼女は両手で顔を覆って、声を上げて泣き始めた。
それはあんまりに悲しく、痛ましい泣きかたであった。暁李はただ呆然としているばかりで、……しかし、彼女の涙の理由を知ったとき、許されるならば悲鳴を上げて転げ回り、涙が涸れるまで泣いてしまいたい気持ちになった。
レヴィルヴィアが泣き疲れて眠りに落ちるのを待って、足音を潜めて部屋を出た。空気そのものが固く感じられる外階段を降りるとき、暁李は自分の吐く息が暖かげに白く上がることが不思議で仕方なかった。こんなに冷たい気持ちになっているのに、息ばかりは人間のぬくもりを帯びているかに思われて。
ノックをして、一分も待つことなく、鍵が開いた。
清継は、パジャマの肩に一枚羽織っただけ。スリッパの足元には靴下を履いてなくて、尊が見たら「先輩マジで風邪ひきますって!」と青ざめて言いそうな格好であった。しかし彼は寝てはいなかったのだろう。暁李の顔を見て、「入って」と暁李にすすめて、しかし彼のスニーカーとサンダルが置かれただけの三和土で立ち尽くす暁李に、それ以上促すことはしなかった。
玄関に立ったまま、
「勇者が誰だか気付いた?」
清継は柔らかな声で訊いた。
「先輩は」
暁李の声は、喉に絡んでいた。「気付いてたんですか」
パジャマ姿でいると、からっぽの右の袖が目立った。清継は、
「だって、死体が出てないんだよ」
と薄い笑みのまま言う。
「ヴィヴィみたいな子の存在を信じるなら、そういうことがあったっておかしくない。そもそも……、どうしてヴィヴィはこの国の他のどこでもなくて、ここに来たんだろうって考えれば、自然と。だから、最初から」
「じゃあ、先輩は」
暁李は悲鳴を奥歯で噛み潰す。「ずっと……、ずっと……」口に拳を当てて、声を抑える、そのことばかり意識しているうちに、膝から力が抜けて、気付いたときにはその場に蹲っていた。清継は品のいいしぐさで膝を揃えて座り、
「楽しかったよね」
暁李の髪に手のひらを乗せた。「幸せだったよね、……これは本当に。ヴィヴィは可愛くって、……自分の娘が出来たらこんな感じなのかなあって、俺、ずっと思ってたよ」
でもあなたはまだ、あんなでかい娘が出来るような歳じゃないでしょう、そんなふうに指摘出来る状況ではなかったし、すぐに暁李は別のことに気付いて愕然とする。
俺自身、この人に「息子」と思われていたのだ……! かりそめのものであれ、レヴィルヴィアを俺の「およめさん」と定義するならば、あの少女だって清継にとっては娘となる。
暁李の髪を撫ぜる清継の左手は、母としてのものである。
「大丈夫だよ」
と、他の誰が言うより信頼に足る声で。
「勇者が誰であっても、俺たちでやっつけよう」
清継は、必要なことだけ言っている。どんな気持ちがするものなのですか、暁李は彼の左手に抱き締められながら、その言葉を嗚咽とともに飲み込んでいる。自分の愛した人が、自分の右腕を奪った人が、……死んだはずの人が、生きているって、どんな気持ちがするものなのですか。
俺は。
俺は、生きてきてこれほど情けない気持ちになったことはありません。こんなに悲しくて、恥ずかしいと思ったことは一度もありません。
「ヴィヴィの側にいてあげて」
清継は、必要なことだけ言う。「あの子、側に暁李がいないって気付いたら、どれだけ寂しいだろう。一緒にいてあげて欲しい。……それが今、暁李のするべきことだよ」
この人が、こういう身体になったとき、暁李の、尊の、生きる道が決まった。清継はどんなに消極的な形であれ、道を照らす。恐らく彼はそのことに自覚的だった。
自分の部屋に戻る。レヴィルヴィアはまだ眠っていたが、暁李が布団に収まると、目を濡らして暁李の胸に顔を埋める。レヴィルヴィアの感じた痛みを想像して、暁李はまた泣きたい気持ちになった。
このこどもは、本当に俺のことを「夫」と思ってくれたのだと暁李には判った。まだキスという言葉を口にするだけで真っ赤になってしまうこどものくせに、人を愛するという感情をレヴィルヴィアは学んだ。清継を、尊を、朝陽を、見て、そこに伴う痛みや悲しみを知った上でなお、自分も誰かを愛したいと願って、本当に暁李の「およめさん」として在ることを決めたのだ。
「暁李」
レヴィルヴィアと向き合ったまま枕に頭を委ねた。
「妾は、……妾は、どうしたら、よいのじゃ……」
くぐもった声が、胸の奥に届く。「妾は……、よりにもよって、そなたの父君を、……キヨの、……キヨの、愛した男を……!」
お前の泣く声は痛々しいんだな。暁李は改めて思い知った。もとより、こどもがあまり得意ではない。ちょっとしたことで深すぎる傷を負って、とりかえしのつかないことになってしまいそうだと思っていたから。こんなふうに悲しみの闇の底で響く泣き声を聴くと、途方もなく無力な自分を思い知らされる。
暁李も、泣いた、清継に撫ぜられながら、どれほど努めても涙を止めることは出来なかった。結局のところ、俺もこどもなのだと思い知る。俺より泣きたいのは、誰でもない、清継だったはずなのだ。
それでも彼は「大丈夫」と言った。
その言葉ひとつで、暁李を救った。
「……んにゃっひゃ!」
強引に、レヴィルヴィアの身体を自分の胸の上に乗せた。そのまま、掛け布団で背中を覆って、少し強く、ぎゅっと抱き締める。レヴィルヴィアは目を丸くして、「さと、り……?」不安そうに、濡れた睫毛に縁取られた双眸を瞬かせた。
「大丈夫だ」
これほど近い距離にあれば、彼女にも自分が泣いたことは露見するかもしれない。しかし暁李は微笑んだ。
「大丈夫だよ。何も問題ない」
しかし……、と困惑が、頬に伝った涙の跡からまた広がりそうになる。やはり清継でなければレヴィルヴィアを安心させることは出来ないだろうか、俺は、あの人に比べたらずいぶん無力だろうか。
「俺はさ、……その、……お前のおむこさんだから。そういうのに、いま、なってるから」
言葉だって不器用である。精神状況を慮れば大いに乱れておかしくなかったのに、ごく冷静に必要なことだけ選んで暁李を励ました清継に比べれば、どうしても。
「夫婦っていうのは、……家族っていうのは、相手のこと、いちばん尊重する……、ものだと思う。俺は、……お前のおむこさんで、だから、お前は俺の家族だから、……だから、俺は、……あいつのこと、……『勇者』のことどうにかして、お前が幸せになれるように、するって決めた」
「しかし……、しかし……!」
「いいんだ。俺にとっても先輩にとっても、もうとうの昔に死んだ人のことだ。俺も先輩も、……もちろん、尊だって朝陽だって、みんな、お前のことをもう、家族みたいに思ってる、大事に……、大事に思ってる、お前のこと、自分のことと同じぐらいに愛してる」
レヴィルヴィアがまた泣きそうだ。それを止めることはもう出来なかった。それでも暁李が自分の無力さを呪うことは、せずに済んだ。彼女は暁李の胸に額を擦り付けて、こう言った。
「妾は、……妾は、幸せなおよめさんじゃ……、優しき夫に、愛される、幸せなおよめさんなのじゃ……」
軽い身体ではあるが、このまま寝たら明日腰やら背中やらがえらいことになるだろうなと暁李は想像して、しかし抱き締めたまま動くことは思い浮かばなかった。彼女の今宵の夢が少しでも優しいものでありますように、……大好きなお菓子に囲まれた甘い甘い夢であってくれますように。確かに不幸ではあろうけれど、そう願うことじたいが既にずいぶん幸せなものなのだと、暁李はレヴィルヴィアから教えてもらった気がした。
ほんの一センチだけ、清継の立つ位置に近付けた気がした。
「夢だったのじゃ……」
眠りに落ちる手前、小さくレヴィルヴィアが言う声を、暁李は聴いた。
「妾は……、こちらの世界へ来て、よかった。……そなたたちと出会えて、……ほんとうに、ほんとうによかったと思うのじゃ……」
何が「夢」であったのか、訊こうかどうしようか迷っているうちに、レヴィルヴィアはすやすやと寝息を立て始めた。ひとまずは妻が安らかな眠りに就くことが出来たことに安堵するとき、暁李は自分の痛みがずいぶん軽くなったことをぼんやりと感じた。




