終章、ないしは罪の継承
時は巡った。
それでも私はこの身に流れる血が犯してきた罪を背負うていかねばならぬ。
許せ、この罪をそなたにまで背負わせてしまうことを。
どうか、許してくれ。
洛中のとある場所に二人の男がいた。一人は幼子。もう一人は青年。年こそ違えど、纏う雰囲気と面影は何処か似通っていた。
幼子は脇息に身を任せ、ぼうっと庭を眺めていた。退屈のためにそうしているのではなく物思いに耽っているような顔つきである。彼には年相応の幼さは無く、どこか達観したような面持ちであった。幼子とは対照的に青年は幼子の正面に姿勢正しく座り、一心不乱に書物を読んでいた。その書物はくたびれており、少し取り扱いを間違えば破れてしまいそうである。それを青年は慎重な手つきで、しかし性急にページをめくっていく。文字を追うその瞳には様々な感情が浮かんでいた。
その書物にはとある男の人生がしたためられている。都で大乱が起こる前のまさしく世が平安であったとされる頃。今に伝わらぬとされてきた古き記憶が黄ばんだ書物に収められていた。
ぱたりと書物を床に落とした音に幼子の視線が青年の元へと向かう。青年の目は伏せられていた。
「これは、真なのですか」
「私が知る限りは真よな。さりとてその時を生きてはおらぬ故、もちろん確証などはない」
「到底信じられませぬ」
抑えきれぬ激情を振り払うかのごとく激しく横に首を振る青年。この場では長幼の礼は重んじられていないようだ。それどころか青年の方が幼子に傅いているようにも見える。
幼子は青年の注意を向けるためにか、ぱちりと扇を鳴らし、言葉を紡ぐ。
「信じずともよい。ただ私はそれと同じような書物をこれからはそなたに保管してほしいのじゃ」
「…貴方様がこれからも保管し続けられればそれでよろしいのでは」
「そういうわけにもいかぬのだ」
幼子は稚児特有のふっくらとしたその頬に淡い笑みを浮かべる。脇息に肘をつき青年に相対する幼子の態度からは威厳すら感じさせられた。
「私はおそらくここを離れねばならなくなる」
「……江戸城」
諦念を含んだ幼子の声とは正反対に青年のそれは苦々しいものだった。その地にはかつて彼が愛した女性が住んでいる。遂げられなかった思いは彼の心に燻り続けていた。
「かつてとは異なり皇尊の地位は重んじられるものではなくなった。形式的な、利用されるだけの哀れな人形になってしもうた。仕方の無いことよ」
幼子はそっと立ち上がり、青年に近づく。書物を床に置いてから伏せられたままの目と視線を合わせ、ぷくぷくとしたその手を青年の頬に寄せた。
「このまま私が父帝の地位を継いだとしても状況は変わらぬだろう。いや悪化する見積もりが高い。それ故私はどうしてもこの書物たちの守り手が欲しいのじゃ」
「これ以外にもあるので?」
「驚くほどの数ではないが、ある。しかしどれもが貴重で保管に値するものだ」
「このような悲劇をいくつも保管して何になるというのです」
青年はその瞼をついに開いた。幼子の瞳をまっすぐ見つめるそのまなざしは力強いものであった。
「これは小野殿にとっては破り捨てたい過去ではないのですか。誰の目にもさらさず己の心のうちに秘めておきたい記憶ではないのですか。それをこのように見世物にして何になるというのです」
青年の瞳に浮かんだ激情は怒りであった。他人の心の痛みを不躾にも記録し伝承してきた者共に対する、憤怒。同じく秘められた思いを抱える者として小野篁に同情せずにはいられなかったのだ。
もしも己が、己の所業がこのような形で記録されていたとすれば。許しはしないだろう。それが誰の手によるものだったとしても。
「それでも帥の宮よ。これは守り抜かねばならぬものなのじゃ」
「……承諾しかねます。私にはとても、とても」
「いずれこの書物が必要になる時が来る。その時まで守り抜かねばならぬのじゃ。どのような手を使ってでもな」
急がぬ故、迷うておくれ。そう言い残し、幼子は庭へと降りたって行った。まだまだ無邪気に遊んでいたい年頃のはずの幼子の双肩には計り知れぬほどの重責がのしかかっている。幼子から子どもである時間を奪ったのは時代と青年たちだった。だからこそ、幼子の願いはできうる限り叶えてやりたい。そう思っていたが、それでも。
そっと書物を開く。そのページには小野篁の慟哭が刻まれていた。
_____降りしきる雨。妹の首をおさえても赤が流れ出すのを止めることは出来ない。何故どうして。そのような言葉ばかりが己の中を反芻する。
_____「言ったでしょう、兄上様。私がお守りいたします、と」妹は俺の腕の中で笑った。
_____どうして妹の体が冷たくなっていくのか分からなかった。そうか、雨のせいか。ならば早く家へ帰らねば。火を焚いて温めればきっとこの閉じられた瞼は開くに違いない。
_____妹は死んだりしないのだから。
小野篁がこの世にいた時から千年近くの時が流れた。それでもなお、この記憶は色褪せることなく青年の目で生きている。青年は指で黒々とした文字をなぞり、小さな声で囁く。
「お引き受けいたしましょう」
幼子は振り返り、笑った。
「よろしく頼むぞ」
____それでも私達はこの記憶を残していかざるを得ないのだ。
幼子と青年の名前についてはあえて明示しません。
各々で推測していただければ、と思います。