約束の青い釉薬
仮工房の灯りが消えたのは、夜明け前だった。
広場には、修復を待つ品々がまだ山のように積まれている。灯里は最後に風向板を棚へ置き、固まった肩を伸ばした。隣ではソレンが帳面を閉じている。彼の指先には、昨夜から何度も道具を握った跡が残っていた。
広場の端で、水位鈴が一度だけ鳴った。
ソレンが顔を上げる。音は聞こえなくても、地面を伝わる振動を感じ取っているのだろう。灯里は鈴のほうへ目を向けた。
「異常?」
ソレンは首を横に振り、懐から折りたたんだ紙を取り出した。そこには、旧街道の資料庫について書かれていた。中央役所が保管する納品記録、転送命令、音路職人の登録簿。灯里が帰る方法を探すなら、そこへ行くしかない。
けれど、中央は遠い。町の工房を封鎖した役所が、資料を素直に見せるとも思えなかった。
灯里が紙を見つめていると、ソレンは指で二人を示し、それから中央の方角を示した。
「一緒に行くの?」
彼はうなずいた。
「危険かもしれないよ。あなたはもう、巡回士として正式に動けない」
ソレンは胸の徽章を外し、掌の上に置いた。表面には細い傷が増えている。役所に逆らえば、この徽章を失うだけでは済まない。町を守る立場も、これまで積み上げてきたものも、すべて奪われるかもしれない。
それでも彼は、徽章をしまわなかった。
灯里は息を吐き、広場を見回した。パン屋の長机。魚屋の天幕。子どもたちが拾ってきた陶片。どれも、この町の人々が差し出してくれたものだ。自分の帰還方法を調べるために中央へ向かう。それは必要なことだった。だが、帰る道だけを探して、この町の危機を置き去りにはできない。
「分かった。一緒に行こう」
ソレンが手を伸ばした。灯里がその手を取ると、彼の指が一度、強く握り返した。
出発は三日後と決まった。
その間、灯里は中央へ持っていく証拠を整理した。切り取られた納品記録の端、風読み塔から見つかった空の留め具、水位鈴に押し込まれていた金属片。町の人々が書いた被害の記録も、ひとつの束にまとめた。
しかし、中央へ行くなら、夜道を越えなければならない。役所の監視を避けるためには、警報を受け取る手段も必要だった。
灯里は工房の隅に残っていた青い釉薬を取り出した。市場の鈴を修復したとき、余った粉を少しだけ分けてもらったものだ。青い釉薬は魔力をよく伝える。器に塗れば、水の揺れや風の変化を知らせることができる。
灯里は小さな円盤状の陶片を成形し、中央に浅い溝を刻んだ。溝には細い金属線を埋め込み、その上から青い釉薬を重ねる。火に入れる前、ソレンが作業台を叩いた。
――何を作る。
「護符。警報を振動で伝えるもの」
ソレンは眉を上げた。
「中央へ向かう途中、誰かが近づいてきても、音では分からないでしょう。これは、危険が近づくと震えるようにする」
灯里は陶片を指でなぞった。ひびのない器は、よく働く。けれど、ひびがあるからこそ、そこに別の役目を与えられることもある。青い釉薬の表面に、細かな線を一本だけ残した。
「完全に閉じると、振動が逃げるから」
ソレンはその説明を聞き、彼女の手首に触れた。指先が、青い陶片の線をゆっくりなぞる。
――約束の印か。
「そう。危険を知らせたら、必ず互いを探す。どちらかが勝手に離れない」
灯里が言うと、ソレンはしばらく黙った。それから自分の胸を指し、灯里の胸を指す。最後に、二人の間へ手のひらを置いた。
――守るのは、片方ではない。
「うん。二人で戻る」
窯の火が消えたころ、陶片は深い青に焼き上がっていた。灯里が指先で軽く叩くと、かすかな振動が返ってくる。ソレンはそれを手のひらで受け、目を細めた。
彼女は陶片に細い革紐を通し、ソレンの首へ掛けた。
「似合う」
ソレンは少し困ったように笑い、代わりに自分の巡回用の紐を外した。そこには、風読み塔の欠片で作った小さな留め具がついている。彼はそれを灯里の手首に結んだ。
冷たい陶片が、皮膚の上で温まっていく。
その夜、広場の仮工房には、町の人々が集まった。パン職人は旅のための硬いパンを包み、マルタは干した魚を袋に詰めた。子どもたちは道中で使える小石を拾い、「危ない場所に置く」と胸を張った。
「中央の資料庫で、必ず見つけてきておくれ」
老婆が言った。
「何を?」
「この町から盗まれたものが、どこへ行ったのかをさ」
灯里はうなずいた。帰還の道も、奪われた音路の行方も、同じ資料の中に眠っているかもしれない。
出発の朝、封鎖された工房の前を通った。扉の封印札は、風に揺れながらも剥がれずに残っている。
ソレンが地面を杖で二度叩いた。
――戻る。
灯里は青い護符を握った。
「戻ってきて、ここを本当の工房にする」
二人が歩き出すと、青い釉薬が朝の光を弾いた。その瞬間、遠くの風向板が小さく震えた。
まるで町が、二人の約束を聞き届けたようだった。




