雨を盗む帳簿
中央資料庫は、役所の本館から少し離れた石造りの建物だった。
門をくぐると、空気の匂いが変わった。湿った土と煤の匂いに混じり、乾いた紙と古い糊の匂いがする。天井近くまで並んだ棚には、町ごとの納品記録や巡回報告が収められていた。窓は細く、昼間だというのに中は薄暗い。
受付に立つ書記へ、ソレンが折りたたんだ紹介状を差し出した。かつての巡回士の徽章が効いたのか、書記は二人を追い返しはしなかった。ただし、灯里の身元を確認する書類がないと分かると、露骨に眉をひそめた。
「異邦人は閲覧室までです。保管庫には入れません」
「転移門に関する記録を探しています」
灯里が言うと、書記の指が止まった。
ほんの一瞬だった。だが、声のひびを聞き取るように、灯里はその沈黙の形を感じた。知らないのではない。知っているのに、答えを選んでいる。
「門の記録は、中央管理部の管轄です」
書記はそう言い、閲覧台の番号札を渡した。
ソレンは灯里の袖を引いた。彼の指が、紙の裏面を二度叩く。誰かに見られている、という合図だった。
閲覧室には、ほかに三人の役人がいた。誰もこちらを見ていないようで、灯里が資料を開くたび、紙をめくる音がわずかに止まる。
まず旧街道の納品記録を請求した。返ってきた箱には、風読み塔、水位鈴、警告鐘に関する書類がまとめられている。しかし、リュネ宛ての記録だけが不自然に少なかった。
「七年間で、これだけ?」
灯里がつぶやくと、ソレンは首を横に振った。彼は箱の底を指差した。
空だった。
灯里は帳面の背表紙を持ち上げ、糊の乾き具合を確かめた。古い紙の匂いの中に、ひとつだけ新しい糊の匂いが混じっている。切り取られた記録を綴じ直したばかりなのだ。
彼女は机の端に置かれた廃棄紙の束へ目を向けた。許可を取って一枚ずつ調べると、細い紙片が指に触れた。端はぎざぎざに裂け、赤い帳簿の紙と同じ繊維が残っている。
灯里はその紙片を、切り取られた記録の端に重ねた。
ぴたりとは合わなかった。だが、続きの数字が見えた。
――二百四十。
その下には、転送先を示す記号がある。首都北区、雨庭第七施設。
灯里の胸が冷たくなった。雨庭という名前は、中央の貴族が暮らす地区にある私設庭園のものだ。天候を調整する高価な陶器が設置され、季節外れの雨さえ降らせられると聞いたことがある。
ソレンが紙片を覗き込み、眉を寄せた。
灯里は棚から別の帳簿を探した。リュネではなく、転送記録そのものを扱う台帳。背表紙の番号を追い、奥の棚から黒革の分厚い帳簿を取り出す。
表紙には、雨の形をした銀の印が押されていた。
ページを開くと、町ごとの納品数と、実際に送られた数が並んでいる。リュネへ送られたはずの部品は、風読み塔用が十二、水位鈴用が二十、警告鐘用が八。
しかし、受領欄に記された数は、どれも半分以下だった。
差し引かれた部品は、同じ日付で北区へ転送されている。
灯里の指が震えた。町で止まった音路は、壊れたのではない。最初から、必要な部品が届いていなかったのだ。
さらにページをめくる。
転送命令の欄に、何度も同じ名が現れた。
ヴァルド・エルゼン。
中央音路管理官。
その名の下には、私設施設への優先供給を認める印が押されていた。公用の補修部品を、貴族の庭へ回す命令。しかも、辺境町へ送ったように帳簿を書き換えている。
灯里は帳簿を閉じようとした。
そのとき、ソレンが彼女の手首をつかんだ。
閲覧室の入口に、濃紺の外套を着た男が立っていた。細い口髭と、磨かれた杖。男は役人たちへ軽くうなずき、それから灯里の前に歩いてくる。
「その帳簿は、許可なく閲覧できるものではありません」
低い声だった。
灯里は青い護符に触れた。陶片がかすかに震えている。危険を知らせる振動だ。
「ヴァルドさんですね」
ソレンが紙に書き、灯里へ見せた。
男の目が細くなる。
「私の名をご存じとは。辺境の町では、ずいぶん熱心に噂を集めているようだ」
「噂ではありません」
灯里は帳簿を開き、転送命令の欄を指した。
「リュネに届かなかった部品が、北区の私設施設へ送られています。命令者は、あなたです」
ヴァルドは笑わなかった。代わりに、背後の役人へ目を向けた。
「異邦人の妄想です。帳簿を置きなさい」
ソレンが机を叩いた。音は小さい。しかし、灯里には彼の怒りが伝わった。
灯里は帳簿を胸元へ引き寄せた。ヴァルドの指が杖の柄を強く握る。
「それを持ち出せば、資料窃盗になります。巡回士殿、あなたの資格も、もう残っていないのでしょう?」
ソレンは一歩も退かなかった。
灯里は帳簿の頁を破ることも、隠すこともできなかった。代わりに、青い護符を机へ押し当てた。釉薬の溝が震え、薄い青い光が紙面を走る。
帳簿の魔力に反応している。
ページの隅に、隠されていた文字が浮かび上がった。
――雨を盗む者、ヴァルドの印をもって記す。
ヴァルドの顔から、初めて余裕が消えた。
灯里はその文字を見つめた。雨は空から降るものだと思っていた。けれど、この町では、誰かが運び、誰かが止め、誰かが奪っていた。
ソレンが灯里の手を握る。
逃げる合図だった。
二人は帳簿を抱え、閲覧室の奥へ走った。背後で役人たちが叫び、扉が開く音が響く。狭い棚の間を抜けると、古い搬入口に出た。ソレンは壁を叩き、床の振動を読む。左。そこに外へ通じる階段がある。
階段を駆け上がった先で、灯里は帳簿を外套の内側へしまった。
青い護符は、まだ震えている。
「見つけた」
灯里は息を切らしながら言った。
「町の沈黙を作った人が、ここにいる」
ソレンは彼女の手のひらへ指で文字を書いた。
――ならば、町じゅうの声で告げる。
遠くで中央の鐘が鳴った。けれど灯里には、その音よりも、帳簿の紙が擦れる小さな音のほうがはっきり聞こえていた。
盗まれた雨の行方が、ついに姿を現した。




