↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音を継ぐ異邦人、沈黙の町であなたと暮らす  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/20

雨を盗む帳簿

 中央資料庫は、役所の本館から少し離れた石造りの建物だった。


 門をくぐると、空気の匂いが変わった。湿った土と煤の匂いに混じり、乾いた紙と古い糊の匂いがする。天井近くまで並んだ棚には、町ごとの納品記録や巡回報告が収められていた。窓は細く、昼間だというのに中は薄暗い。


 受付に立つ書記へ、ソレンが折りたたんだ紹介状を差し出した。かつての巡回士の徽章が効いたのか、書記は二人を追い返しはしなかった。ただし、灯里の身元を確認する書類がないと分かると、露骨に眉をひそめた。


「異邦人は閲覧室までです。保管庫には入れません」


「転移門に関する記録を探しています」


 灯里が言うと、書記の指が止まった。


 ほんの一瞬だった。だが、声のひびを聞き取るように、灯里はその沈黙の形を感じた。知らないのではない。知っているのに、答えを選んでいる。


「門の記録は、中央管理部の管轄です」


 書記はそう言い、閲覧台の番号札を渡した。


 ソレンは灯里の袖を引いた。彼の指が、紙の裏面を二度叩く。誰かに見られている、という合図だった。


 閲覧室には、ほかに三人の役人がいた。誰もこちらを見ていないようで、灯里が資料を開くたび、紙をめくる音がわずかに止まる。


 まず旧街道の納品記録を請求した。返ってきた箱には、風読み塔、水位鈴、警告鐘に関する書類がまとめられている。しかし、リュネ宛ての記録だけが不自然に少なかった。


「七年間で、これだけ?」


 灯里がつぶやくと、ソレンは首を横に振った。彼は箱の底を指差した。


 空だった。


 灯里は帳面の背表紙を持ち上げ、糊の乾き具合を確かめた。古い紙の匂いの中に、ひとつだけ新しい糊の匂いが混じっている。切り取られた記録を綴じ直したばかりなのだ。


 彼女は机の端に置かれた廃棄紙の束へ目を向けた。許可を取って一枚ずつ調べると、細い紙片が指に触れた。端はぎざぎざに裂け、赤い帳簿の紙と同じ繊維が残っている。


 灯里はその紙片を、切り取られた記録の端に重ねた。


 ぴたりとは合わなかった。だが、続きの数字が見えた。


 ――二百四十。


 その下には、転送先を示す記号がある。首都北区、雨庭第七施設。


 灯里の胸が冷たくなった。雨庭という名前は、中央の貴族が暮らす地区にある私設庭園のものだ。天候を調整する高価な陶器が設置され、季節外れの雨さえ降らせられると聞いたことがある。


 ソレンが紙片を覗き込み、眉を寄せた。


 灯里は棚から別の帳簿を探した。リュネではなく、転送記録そのものを扱う台帳。背表紙の番号を追い、奥の棚から黒革の分厚い帳簿を取り出す。


 表紙には、雨の形をした銀の印が押されていた。


 ページを開くと、町ごとの納品数と、実際に送られた数が並んでいる。リュネへ送られたはずの部品は、風読み塔用が十二、水位鈴用が二十、警告鐘用が八。


 しかし、受領欄に記された数は、どれも半分以下だった。


 差し引かれた部品は、同じ日付で北区へ転送されている。


 灯里の指が震えた。町で止まった音路は、壊れたのではない。最初から、必要な部品が届いていなかったのだ。


 さらにページをめくる。


 転送命令の欄に、何度も同じ名が現れた。


 ヴァルド・エルゼン。


 中央音路管理官。


 その名の下には、私設施設への優先供給を認める印が押されていた。公用の補修部品を、貴族の庭へ回す命令。しかも、辺境町へ送ったように帳簿を書き換えている。


 灯里は帳簿を閉じようとした。


 そのとき、ソレンが彼女の手首をつかんだ。


 閲覧室の入口に、濃紺の外套を着た男が立っていた。細い口髭と、磨かれた杖。男は役人たちへ軽くうなずき、それから灯里の前に歩いてくる。


「その帳簿は、許可なく閲覧できるものではありません」


 低い声だった。


 灯里は青い護符に触れた。陶片がかすかに震えている。危険を知らせる振動だ。


「ヴァルドさんですね」


 ソレンが紙に書き、灯里へ見せた。


 男の目が細くなる。


「私の名をご存じとは。辺境の町では、ずいぶん熱心に噂を集めているようだ」


「噂ではありません」


 灯里は帳簿を開き、転送命令の欄を指した。


「リュネに届かなかった部品が、北区の私設施設へ送られています。命令者は、あなたです」


 ヴァルドは笑わなかった。代わりに、背後の役人へ目を向けた。


「異邦人の妄想です。帳簿を置きなさい」


 ソレンが机を叩いた。音は小さい。しかし、灯里には彼の怒りが伝わった。


 灯里は帳簿を胸元へ引き寄せた。ヴァルドの指が杖の柄を強く握る。


「それを持ち出せば、資料窃盗になります。巡回士殿、あなたの資格も、もう残っていないのでしょう?」


 ソレンは一歩も退かなかった。


 灯里は帳簿の頁を破ることも、隠すこともできなかった。代わりに、青い護符を机へ押し当てた。釉薬の溝が震え、薄い青い光が紙面を走る。


 帳簿の魔力に反応している。


 ページの隅に、隠されていた文字が浮かび上がった。


 ――雨を盗む者、ヴァルドの印をもって記す。


 ヴァルドの顔から、初めて余裕が消えた。


 灯里はその文字を見つめた。雨は空から降るものだと思っていた。けれど、この町では、誰かが運び、誰かが止め、誰かが奪っていた。


 ソレンが灯里の手を握る。


 逃げる合図だった。


 二人は帳簿を抱え、閲覧室の奥へ走った。背後で役人たちが叫び、扉が開く音が響く。狭い棚の間を抜けると、古い搬入口に出た。ソレンは壁を叩き、床の振動を読む。左。そこに外へ通じる階段がある。


 階段を駆け上がった先で、灯里は帳簿を外套の内側へしまった。


 青い護符は、まだ震えている。


「見つけた」


 灯里は息を切らしながら言った。


「町の沈黙を作った人が、ここにいる」


 ソレンは彼女の手のひらへ指で文字を書いた。


――ならば、町じゅうの声で告げる。


 遠くで中央の鐘が鳴った。けれど灯里には、その音よりも、帳簿の紙が擦れる小さな音のほうがはっきり聞こえていた。


 盗まれた雨の行方が、ついに姿を現した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。