戻れないかもしれない
中央資料庫を出たあとも、灯里の手のひらには、帳簿の紙の冷たさが残っていた。
裏口から抜けた二人は、役所の裏手にある細い坂道を下った。追手の気配はなかったが、ソレンは何度も立ち止まり、地面に手をついた。遠くの足音を読むためだ。灯里には聞こえないほど小さな振動を、彼は指先で拾っていた。
「まだ追ってくる?」
灯里が尋ねると、ソレンは首を振った。それから、彼女の手首を取り、指でゆっくり文字を書いた。
――今は違う。だが、時間がない。
二人は宿ではなく、町外れの空き工房へ向かった。人目につかないよう、昼でも雨戸を閉めている場所だ。かつて音路職人が使っていたらしいが、持ち主が中央へ呼び戻されてから、長く放置されていた。
灯里は作業台に帳簿を置いた。青い護符をその隣に置くと、釉薬の溝が淡く光った。
帳簿には、リュネへ送られるはずだった部品の数が記されている。風読み塔の芯、警告鐘の振り子、水位鈴の共鳴石。それらが北区の雨庭第七施設へ転送されていた。
「でも、これだけじゃない」
灯里は帳簿の頁をめくった。
最初に見たときは、転送された数だけを追っていた。今度は日付を並べていく。すると、奇妙な間隔が見えてきた。三か月ごとに、部品の転送量が増えている。しかも、その直前には必ず辺境で異常気象が起きていた。
「雨が少なかった月のあとに、転送量が増えてる」
灯里は指で数字をなぞった。
「不足を補うために送られたように見せて、実際には逆だった。町の音路が止まるほど、北区の施設には部品が集まってる」
ソレンは帳簿をのぞき込み、眉をひそめた。彼は数字を読むのが苦手ではない。音を失ってから、目で拾える情報を誰より慎重に組み立てるようになったのだ。
彼は頁の端を叩き、灯里へ視線を向けた。
「何かあるの?」
ソレンは帳簿の余白に、短く書いた。
――転移門。
灯里の息が止まった。
中央資料庫へ来た本当の目的は、横流しの証拠を探すことだけではなかった。自分がどこから来たのか、なぜ雨音壺に触れた瞬間、世界を越えたのか。その記録も探していた。
帳簿の後半には、音路部品だけでなく、特別輸送品の一覧があった。封印陶器、門路調整具、帰還用核片。聞き慣れない言葉の中に、灯里の胸を突く記述があった。
――雨音壺型転移器、一基。旧街道リュネ方面へ移送。
日付は、灯里が博物館で雨音壺を修復していた日と一致していた。
手が震えた。
「私が触った壺は、ただの器じゃなかった」
灯里は呟いた。
「この世界へ来るための門だったんだ」
さらに記録を追うと、帰還に必要な条件が小さな文字で記されていた。
転移器の外殻を修復し、欠損した核心部品を装着すること。核心部品は、転移先の音路網から取り外された場合に限り、門の魔力を再起動できる。
灯里は何度もその一文を読み返した。
核心部品。
どこかで聞いたことがある。工房に運び込まれた壊れた部品の中に、雨音壺と同じ青灰色の陶片があった。風読み塔を動かすため、灯里が代用品として組み込んだ部品だ。
あれが核心部品なら、今もリュネの塔の中にある。
「外せば、帰れるかもしれない」
声に出した瞬間、その言葉がひどくよそよそしく響いた。
帰れる。博物館へ。自分の仕事場へ。知らない人々に囲まれた、見慣れた世界へ。
けれど、部品を外せば、風読み塔は再び止まる。雨や嵐の知らせを失い、町の人々はまた危険にさらされる。ようやく戻り始めた音路を、自分のために壊すことになる。
ソレンは灯里の顔を見つめていた。
彼は何も書かなかった。帰れ、とも、残れ、とも言わない。ただ、青い護符を彼女の前へ押し出した。
護符は小さく震えている。
危険を知らせる震えではなかった。灯里が作ったものを、ソレンが身につけている。その振動が、彼の指から机へ伝わっているのだ。
灯里は目を閉じた。
ここへ来たばかりのころなら、迷わず帰還の方法を選んでいた。けれど今は、町の市場で鈴が鳴ったときの人々の笑顔も、仮工房で差し出されたパンの温かさも知っている。ソレンが音のない世界で、誰より正確に彼女を導いてくれたことも知っている。
「私、帰りたい」
灯里はゆっくり言った。
ソレンの指が止まる。
「帰りたいと思う気持ちは、なくせない。向こうに置いてきたものもあるから」
灯里は帳簿の上に手を置いた。
「でも、今すぐ部品を外すことはできない」
ソレンは彼女の手の甲に、指先で一文字を書いた。
――なぜ。
「私が直した音路を、私の帰還のためにまた壊したくない。戻る方法は探す。でも、町を見捨てる形では選ばない」
ソレンは長い間、動かなかった。
やがて彼は灯里の手を取り、自分の胸元へ導いた。鼓動が、手のひらに伝わる。音を失った彼が、それでも確かに感じ取っているものだった。
灯里はその振動を受け止めた。
そのとき、工房の外で馬車が止まった。
扉の向こうから、複数の足音が近づいてくる。青い護符が激しく震えた。
ソレンは灯里を背後へ押し、腰の短剣に手をかけた。だが、もう巡回士の徽章はない。中央での資格を失いかけている彼に、役所へ逆らう権限は残されていなかった。
扉が三度、叩かれた。
「水城灯里。中央音路管理部の命令により、身柄を預かる」
ヴァルドの声だった。
灯里は帳簿を抱えた。帰還の記録も、横流しの証拠も、まだここにある。
ソレンが振り返り、指で問う。
――どうする。
灯里は帳簿を胸に押し当て、青い護符を握った。
「まだ戻れないかもしれない。でも、ここで捕まるわけにはいかない」
扉の向こうで、封印具の金属が擦れた。
灯里は工房の奥を見た。崩れかけた窯の脇に、古い地下道へ続く床板がある。かつて部品を運ぶために使われていた道だ。
彼女はソレンの手を取った。
「行こう。帰る道を探すためにも、まずはこの町を守る」
ソレンは一度だけ強くうなずいた。
二人が床板を持ち上げた瞬間、扉が内側へ弾け飛んだ。ヴァルドの影が差し込み、冷たい声が工房を満たす。
しかし灯里たちは、すでに暗い地下道へ身を滑り込ませていた。
背後で扉が閉じる。
遠ざかる足音の中、帳簿の紙がかすかに震えた。そこに記された帰還の条件は、灯里を元の世界へ誘っていた。
けれど同時に、町の音路の奥からも、別の振動が伝わってくる。
まだ直していない声がある。
灯里は暗闇の中で、ソレンの手を握り直した。戻れないかもしれない。それでも今は、進む場所を自分で選べる。
そのことだけが、確かな灯りだった。




