聞こえない人の伝え方
新しい工房の鍵を受け取ってから二日目の朝、灯里は床に並べた道具を一つずつ拭いていた。
広場の裏にある小屋は、以前は荷車の部品置き場だったらしい。壁には古い釘が残り、屋根には雨漏りの跡がある。それでも、机を置き、窓を開け、修復用の釉薬を棚に並べると、そこは灯里の工房になった。
入口には、まだ看板がない。
白木の板に何と書くか決められず、灯里は朝から何度も筆を持ち上げては置いていた。
そのとき、戸口の外で石を踏む気配がした。
ソレンだった。彼は片手に細長い木箱を抱え、もう一方の手で工房の柱を軽く叩いた。二度。少し間を置いて、一度。
「おはよう、という意味ですか」
灯里が尋ねると、ソレンは口元だけで笑い、手話で返した。
――今日は、教える。
「何を?」
ソレンは木箱を机へ置いた。蓋を開けると、中には細い革紐、平たい金属板、小さな木片、そして底に敷く厚い布が入っていた。
灯里が首をかしげると、ソレンは工房の床へ布を広げ、その上に金属板を置いた。彼は板の端を指で二度叩き、灯里にも触れるよう促す。
こつ、こつ。
金属の振動が、板から布へ、布から床へ伝わった。耳で聞く音とは違う。けれど、指先と掌には確かな合図として届く。
ソレンは灯里の手首をそっと持ち、板の上へ置いた。それから自分の足を床へ踏み下ろす。
どん。
振動が、足裏から床を走った。
「振動を使って話すんですね」
ソレンはうなずいた。
彼は次に、机を一度叩き、窓を指した。灯里が窓の外を見ると、広場の向こうで魚売りの女主人が手を振っている。彼女はソレンへ向かって何か叫び、返事を待たずに店へ戻っていった。
「今の人は、何と言っていたんですか」
ソレンは肩をすくめた。分からない、ということらしい。
灯里は少し驚いた。ソレンは町の人々の動きをよく見ていた。口元や足元、視線の向きから、誰が困っているのか、何が起きたのかを読み取る。だから灯里は、彼なら町のすべてを理解しているのだと思っていた。
けれど、分からないこともある。
その当たり前の事実が、なぜか胸に残った。
ソレンは金属板を革紐で柱に結びつけた。柱の反対側から板を叩くと、工房の中でも微かな振動が感じられる。次に彼は外へ出て、柱の下の地面を踏んだ。
どん、どん。
灯里は指を板へ置いた。二度の振動が届いた。
――危険。
ソレンは手話で示し、広場の端を指さした。
そこでは、荷車を引いた男が坂を下っていた。車輪の片方が外れかけ、荷台が大きく傾いている。男は前を見ているが、背後の異変には気づいていない。
灯里は走り出し、道の脇に立って手を振った。ソレンはすでに荷車へ駆け寄っている。彼が車輪の前へ身を投げ出すようにして木片を差し込み、荷車はかろうじて止まった。
積まれていた陶器が、荷台の上で大きく揺れた。
灯里は息を整えながら、ソレンを見た。
「いつも、こうやって危険を見つけているんですか」
彼は答えず、荷車の軸に手を当てた。まだ細かな振動が残っている。折れかけた木が、今にも裂けようとしていた。
ソレンは灯里を呼び、指で軸を示した。灯里が触れると、ひびの奥から、乾いた木が軋む記憶が伝わってきた。
「これは今日中に直さないと、また外れます」
荷車の男は驚いた顔をし、何度も頭を下げた。
工房へ戻る道で、灯里は歩みを緩めた。
「教えてください」
ソレンが振り返る。
「あなたが、どうやって見ているのか。どうやって伝えているのか。私にもできるようになりたいです」
ソレンはしばらく彼女を見つめた。やがて、少し困ったように眉を下げる。
――聞こえる人には、難しい。
「だからこそ、覚えたいんです」
灯里は自分の耳を指した。
「私は音を聞けます。ひびの中に残った音も、誰かが隠した音も。でも、それだけでは分からないことがある。あなたが見ているものを、私は見落とすかもしれない」
ソレンの指が止まった。
灯里は続けた。
「あなたの聴覚を治す方法を探したいと思っていました。でも、それは私が勝手に決めることではないんですよね」
風が広場を抜け、工房の軒先に吊った金属板を揺らした。ソレンは板の振動を掌で受け止めるように触れた。
それから、灯里の手のひらへ、ゆっくり文字を書いた。
――治したいかどうかは、私が決める。
続けて、もう一度書く。
――聞こえないままでも、私は私だ。
灯里はその文字を指でなぞった。
「はい」
返事をしたあと、喉の奥が少し震えた。
「その通りです。ごめんなさい」
ソレンは首を横に振った。謝罪を拒むように、手のひらを上へ向ける。そして灯里の手を取ると、互いの掌を重ねた。
彼の指が、灯里の掌へ三度触れた。
こつ、こつ、こつ。
――一緒に見る。
灯里の胸の奥に、温かなものが広がった。
「一緒に、ですね」
ソレンはうなずいた。
その日から、工房には新しい道具が増えた。柱に結ばれた金属板、床へ敷く厚い布、振動を遠くへ送るための細い木片。灯里はそれらを使い、簡単な合図を覚えた。
一度の振動は注意。二度は来てほしい。三度は危険。
間隔や強さが変われば、意味も変わる。灯里は何度も間違えた。強く叩きすぎて棚の器を倒し、弱すぎてソレンに伝わらず、互いに顔を見合わせて笑った。
夕方、灯里は白木の看板に筆を入れた。
音路修復工房。
その下に、小さく二人の名前を書く。
水城灯里。ソレン。
ソレンは看板を見上げ、灯里へ手話で尋ねた。
――私の名前を、書いていいのか。
「もちろんです。ここは私だけの工房ではありませんから」
彼はしばらく看板を見つめたあと、柱を一度叩いた。
こつ。
灯里は掌を柱へ当てる。
小さな振動が、確かに返ってきた。
市場の鈴が遠くで鳴った。今度はその音だけでなく、床を伝う揺れも灯里には分かった。
聞こえる音と、聞こえない音。
その両方が、二人の間をつないでいた。




