↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音を継ぐ異邦人、沈黙の町であなたと暮らす  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/20

巡回士の静かな地図

 雨は夜明けまで降り続いた。


 風読み塔の仮の部品は、雨脚が強まるにつれて何度も軋み、そのたびに町へ短い知らせを送った。西から冷たい風。山道に雲。川の水位に注意。音は途切れ途切れだったが、住民たちは軒先の皿や鈴を見守り、届いた振動を隣家へ伝えた。


 灯里は工房の隅で、濡れた部品を布の上に並べていた。水差しの取っ手は欠け、銅線は黒ずんでいる。壊れたものを直すことには慣れていたが、この町の器具は、ただ形を戻せば働くわけではない。ひびの中に残った記憶を読み、失われた役目を探さなければならなかった。


「眠っていないな」


 朝、扉の前にソレンが立っていた。いつものように、靴の踵で床を二度叩く。灯里は振り返り、冷めた茶を指差した。


「ソレンこそ。巡回は終わったんですか」


「終えた。町の被害はない。お前が塔を動かしたからだ」


 彼はそう言ってから、掌を工房の机に置いた。木板を通じて伝わる振動が、規則正しく三度響く。感謝の合図だと、灯里は少しずつ分かるようになっていた。


「一度だけです。まだ直ったわけじゃありません」


「それでも一度、町は未来を知った」


 ソレンは外套の内側から、折り畳んだ地図を取り出した。昨日の羊皮紙より古く、縁は擦り切れている。町の北端から西へ向かい、山裾を大きく迂回する一本の道が描かれていた。


「旧街道だ」


「風読み塔から続いているんですね」


「昔はこの道を使って、音路の部品を各町へ運んでいた。今は中央の新道ができて、ほとんど使われていない」


 ソレンは地図の中央にある印を指でなぞった。


「俺が聴覚を失ったのも、旧街道の巡回中だった」


 灯里は手を止めた。


「事故ですか?」


「そう記録されている。五年前、街道沿いの中継所で音路が暴走した。警告の振動が一度に流れ込み、近くにいた俺は倒れた。目が覚めた時には、音がなかった」


 彼の指が、地図の一点で止まった。


「だが、記録には妙なところがある。暴走したはずの中継所は、翌日には部品が取り外され、跡形もなくなっていた」


「誰かが隠した?」


「そう考える理由はある。事故の前後で、巡回記録の地図だけが新しく描き直されていた。街道の分岐がひとつ消されている」


 ソレンは別の紙を重ねた。古い地図と新しい地図。その二枚を比べると、確かに西側の谷へ伸びる細い道が、新しい方では途切れていた。


「この道の先に、何があるんですか」


「雨音壺の窯場だ」


 胸の奥が、かすかに鳴った。


 灯里がこの世界へ来るきっかけになった壺。博物館の収蔵庫で、修復のために触れた瞬間、雨の匂いとともに視界を奪った器。こちらの工房で見たどの陶器とも違う、深い青の釉薬。


「雨音壺が作られた場所?」


「旧街道沿いに、かつて窯元があったらしい。今は廃業している」


 灯里は棚の奥から、布に包んだ陶片を取り出した。転移した壺の底に残っていた欠片だ。表面の青は薄く、縁には細いひびが走っている。


 指先で触れた途端、遠い雨の音がした。


 窯の火が燃える音。職人の爪が器の底を撫でる音。乾いた棚に並べられた無数の壺。そして、最後に混じった低い金属音。


 誰かが壺の中へ、陶器ではないものを埋め込んでいた。


「この壺は、普通の雨音壺じゃありません」


 灯里はゆっくり言った。


「中に、音路の部品に似たものが入っています。雨を知らせるためだけじゃなく、遠くの音を受ける仕組みがある」


「受ける?」


「たぶん、こちらと私のいた場所をつなぐための何かです。でも、どうして私の世界にあったのかは分かりません」


 ソレンはすぐには答えなかった。聞こえない彼にとって、灯里の言葉は目で読み取るものだ。彼は彼女の表情を見つめ、それから地図へ視線を戻した。


「旧街道へ行こう」


「危険では?」


「危険があるなら、なおさら二人で行く」


「巡回士の仕事だからですか」


 ソレンは首を横に振った。


「もう俺は巡回士として正式に命じられてはいない。昨日の報告で、風読み塔の調査を勝手に続けたことを咎められた」


「では、なぜ?」


 彼は机の上で指を動かした。短い線を二本、間を空けて三本。灯里にも読めるようになった、彼の手話だった。


――知りたい。


 それだけの言葉が、妙に重かった。


 灯里は陶片を布へ戻し、地図の端を押さえた。


「私も行きます」


 ソレンが眉を上げる。


「帰るための手がかりがあるから、ではない」


「それもあります。でも、町の部品を持ち去った人を見つけたい。風読み塔も、市場の鈴も、誰かが必要なものを選んで奪っている。私の壺に何が起きたのか分からなくても、放っておきたくありません」


 ソレンはしばらく彼女を見た。やがて、机の上で拳を一度だけ軽く弾いた。


――同行を認める。


「許可する、みたいな言い方ですね」


 灯里が笑うと、ソレンもわずかに口元を緩めた。


「なら、言い直す」


 彼は地図を二人の間に広げた。


「一緒に調べてほしい」


 灯里はその言葉を聞き、胸の奥に残っていた不安が、雨に溶けるように薄れていくのを感じた。


「分かりました。一緒に行きます」


 旧街道へ向かう出発は、三日後と決めた。必要な食料、道具、灯り。それから、風読み塔の部品をもう一度組み直すための銅線を集める。


 工房の窓の外では、雨が上がりかけていた。雲の切れ間から差した光が、濡れた屋根を細く照らしている。


 町のどこかで、鈴が一度鳴った。


 ソレンには届かない音だった。けれど彼は、机の震えに気づいたように顔を上げた。灯里はその横顔を見て、地図の上に新たな道が開いた気がした。


 旧街道の先に何が待っているのかは、まだ分からない。


 ただ、二人で歩くなら、沈黙の中にも手がかりは残る。


 灯里は青い陶片を鞄へしまい、出発の日を待った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。