↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音を継ぐ異邦人、沈黙の町であなたと暮らす  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/20

ひびの向こうの風

 工房で働き始めて三日目の朝、灯里は風の音で目を覚ました。


 音、といっても耳に届いたわけではない。枕元に置いた小さな陶皿が、かすかに震えていたのだ。窓の外では風が吹いているらしい。けれど、軒先に並ぶ皿も、壁を走る陶管も、何ひとつ鳴らなかった。


 町はまた沈黙していた。


「起きているか」


 扉を叩く音の代わりに、床板が三度、規則正しく揺れた。ソレンが靴の踵で合図を送っているのだと、灯里はもう知っていた。


「今、開けます」


 扉を開くと、ソレンは青い外套の襟を立て、細長い金属棒を肩に掛けていた。棒の先には、割れた陶片がいくつか結びつけられている。


「風読み塔へ行く」


「風読み塔?」


「町の北端にある。昨夜、見張り台の振動が途切れた」


 ソレンは地図を広げた。羊皮紙には町の道と音路が描かれている。赤い線が屋根から屋根へ伸び、北端の小さな塔へ集まっていた。


「風読み塔は、遠くの風向きを町へ伝える中継所だ。塔が動けば、山向こうの天候が分かる」


「今も動いているんですか」


「動いているなら、誰かが知らせを受け取っている」


 ソレンは地図の北側を指で叩いた。


「だが、町には何も届いていない」


 北端へ向かう道は、家並みが途切れるにつれて荒れていった。乾いた草の間から古い陶管が顔を出し、ところどころ土に埋もれている。灯里は歩きながら管に触れた。中には遠い風の気配があった。しかし途中で何度も途切れ、ひびの先には、抜き取られたような空白が残っている。


 塔は、崖の上に建っていた。


 石を積んだ細い建物で、頂には四枚の陶板が十字に取り付けられている。風を受けて回る仕組みらしいが、陶板は傾いたまま止まっていた。


 ソレンは塔の扉に手を当てた。しばらく目を閉じ、指先へ伝わる振動を探っている。


「中で何かが揺れている」


「部品が残っているんですか」


「ひとつだけだ。歯車のようなものが、空回りしている」


 扉を開けると、内部は薄暗く、土と鉄の匂いがした。中心に木製の軸が立ち、その周囲に陶器と金属の部品が組み合わされている。上の陶板が受けた風を、細かな振動に変えて下へ伝える機械だった。


 灯里は軸に触れた。


 途端に、指の中へ大量の音が流れ込んできた。


 高い風。低い風。雨を含んだ重い風。山から吹き下ろす冷たい風。何年分もの知らせが、細いひびの奥で重なっている。


 だが、その中心にひとつだけ、異質な音があった。


 金属を外す音。


 ねじを回す音。


 部品を布で包む音。


 そして、扉の外へ運び出される重い足音。


「壊れたんじゃありません」


 灯里は軸から手を離した。


「部品が外されています。風を受ける陶板と、内部の歯車をつなぐ部品です」


 ソレンは塔の床に膝をつき、軸の根元を調べた。指で溝をなぞり、空いた穴を確かめる。


「持ち去られたのか」


「はい。割れた跡がありません。工具で外されています」


 灯里は壁際に積もった土を見た。その中に、淡い青色の釉薬の粉が混じっている。触れると、かすかに冷たい振動が返ってきた。


「この部品は、最近ここから運び出されています」


「最近?」


「ひびの中に、古い音と新しい音が重なっています。外されたのは……半月ほど前」


 ソレンの顔が硬くなった。


「音路の故障が増えた時期と同じだ」


 二人は塔の外へ出た。崖下には、使われなくなった荷道が伸びている。道の脇には車輪の跡が残り、途中で町とは反対の方向へ向かっていた。


「部品を探しに行く」


 ソレンが言った。


「でも、町の知らせを止めたままにはできません」


 灯里は塔を見上げた。陶板の一枚が風に押され、ほんの少しだけ動いた。


 工房へ戻ると、灯里は棚の奥から壊れた器具を集めた。使えそうなのは、火災鈴の軸に残っていた細い銅線と、ひび割れた風鈴の中心棒、それに古い水差しの取っ手だった。


「それで直せるのか」


 ソレンが尋ねる。


「完全には無理です。でも、風の変化を一度だけ町へ送ることなら」


 灯里は銅線を曲げ、風鈴の棒に結びつけた。水差しの取っ手を削って歯車の代わりにし、軸の空いた溝へ差し込む。形は不格好だったが、指先から伝わるひびの記憶が、必要な角度を教えてくれた。


 最後に、風読み塔の陶板から伸びる管へ、修理した部品をつないだ。


「下がってください」


 灯里が言うと、ソレンは彼女の肩を軽く叩いた。振動で伝える、了解の合図だった。


 崖の上を風が走った。


 最初は、軸が小さく震えただけだった。次に水差しの取っ手が回り、銅線が張る。塔の内部で、眠っていた歯車がひとつ、かすかに動いた。


 ごう、と低い振動が石壁を下っていく。


 町の方角へ伸びた陶管が、順番に震え始めた。北の家、広場の屋根、市場の柱。止まっていた皿が揺れ、軒先の鈴が一つ、また一つと鳴り出す。


 音は弱かった。それでも、沈黙を破るには十分だった。


 遠くで窓が開く。誰かが叫び、子どもたちの足音が通りを走る。ソレンは聞こえないはずの町を見つめ、掌を地面へ押し当てていた。


「何が伝わったんですか」


 灯里が尋ねる。


 ソレンはしばらく振動を読んでから、彼女を振り返った。


「西風だ」


「西風?」


「冷たい。雨を連れてくる風だ」


 その直後、空から一粒の雫が落ちた。


 灯里の頬を濡らした雨は、すぐに細い線となって降り始めた。町のあちこちで、皿や鈴が懸命に鳴っている。


 しかし、塔の軸は長くはもたなかった。水差しの取っ手が軋み、銅線が切れる。音路は次第に弱まり、最後にはまた静かになった。


 灯里は濡れた手で、外れかけた部品を握った。


 そのひびの向こうから、風の記憶が聞こえていた。


 部品を持ち去った者は、塔を壊したかったのではない。風の知らせを、別の場所へ送ろうとしていた。


「ソレン」


「分かっている」


 彼は荷道の先を見た。


「この町の沈黙は、偶然じゃない」


 雨音が二人の間を満たしていく。


 灯里は初めて、帰る方法とは別の謎を、自分の意思で追いかけたいと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。