ひびの向こうの風
工房で働き始めて三日目の朝、灯里は風の音で目を覚ました。
音、といっても耳に届いたわけではない。枕元に置いた小さな陶皿が、かすかに震えていたのだ。窓の外では風が吹いているらしい。けれど、軒先に並ぶ皿も、壁を走る陶管も、何ひとつ鳴らなかった。
町はまた沈黙していた。
「起きているか」
扉を叩く音の代わりに、床板が三度、規則正しく揺れた。ソレンが靴の踵で合図を送っているのだと、灯里はもう知っていた。
「今、開けます」
扉を開くと、ソレンは青い外套の襟を立て、細長い金属棒を肩に掛けていた。棒の先には、割れた陶片がいくつか結びつけられている。
「風読み塔へ行く」
「風読み塔?」
「町の北端にある。昨夜、見張り台の振動が途切れた」
ソレンは地図を広げた。羊皮紙には町の道と音路が描かれている。赤い線が屋根から屋根へ伸び、北端の小さな塔へ集まっていた。
「風読み塔は、遠くの風向きを町へ伝える中継所だ。塔が動けば、山向こうの天候が分かる」
「今も動いているんですか」
「動いているなら、誰かが知らせを受け取っている」
ソレンは地図の北側を指で叩いた。
「だが、町には何も届いていない」
北端へ向かう道は、家並みが途切れるにつれて荒れていった。乾いた草の間から古い陶管が顔を出し、ところどころ土に埋もれている。灯里は歩きながら管に触れた。中には遠い風の気配があった。しかし途中で何度も途切れ、ひびの先には、抜き取られたような空白が残っている。
塔は、崖の上に建っていた。
石を積んだ細い建物で、頂には四枚の陶板が十字に取り付けられている。風を受けて回る仕組みらしいが、陶板は傾いたまま止まっていた。
ソレンは塔の扉に手を当てた。しばらく目を閉じ、指先へ伝わる振動を探っている。
「中で何かが揺れている」
「部品が残っているんですか」
「ひとつだけだ。歯車のようなものが、空回りしている」
扉を開けると、内部は薄暗く、土と鉄の匂いがした。中心に木製の軸が立ち、その周囲に陶器と金属の部品が組み合わされている。上の陶板が受けた風を、細かな振動に変えて下へ伝える機械だった。
灯里は軸に触れた。
途端に、指の中へ大量の音が流れ込んできた。
高い風。低い風。雨を含んだ重い風。山から吹き下ろす冷たい風。何年分もの知らせが、細いひびの奥で重なっている。
だが、その中心にひとつだけ、異質な音があった。
金属を外す音。
ねじを回す音。
部品を布で包む音。
そして、扉の外へ運び出される重い足音。
「壊れたんじゃありません」
灯里は軸から手を離した。
「部品が外されています。風を受ける陶板と、内部の歯車をつなぐ部品です」
ソレンは塔の床に膝をつき、軸の根元を調べた。指で溝をなぞり、空いた穴を確かめる。
「持ち去られたのか」
「はい。割れた跡がありません。工具で外されています」
灯里は壁際に積もった土を見た。その中に、淡い青色の釉薬の粉が混じっている。触れると、かすかに冷たい振動が返ってきた。
「この部品は、最近ここから運び出されています」
「最近?」
「ひびの中に、古い音と新しい音が重なっています。外されたのは……半月ほど前」
ソレンの顔が硬くなった。
「音路の故障が増えた時期と同じだ」
二人は塔の外へ出た。崖下には、使われなくなった荷道が伸びている。道の脇には車輪の跡が残り、途中で町とは反対の方向へ向かっていた。
「部品を探しに行く」
ソレンが言った。
「でも、町の知らせを止めたままにはできません」
灯里は塔を見上げた。陶板の一枚が風に押され、ほんの少しだけ動いた。
工房へ戻ると、灯里は棚の奥から壊れた器具を集めた。使えそうなのは、火災鈴の軸に残っていた細い銅線と、ひび割れた風鈴の中心棒、それに古い水差しの取っ手だった。
「それで直せるのか」
ソレンが尋ねる。
「完全には無理です。でも、風の変化を一度だけ町へ送ることなら」
灯里は銅線を曲げ、風鈴の棒に結びつけた。水差しの取っ手を削って歯車の代わりにし、軸の空いた溝へ差し込む。形は不格好だったが、指先から伝わるひびの記憶が、必要な角度を教えてくれた。
最後に、風読み塔の陶板から伸びる管へ、修理した部品をつないだ。
「下がってください」
灯里が言うと、ソレンは彼女の肩を軽く叩いた。振動で伝える、了解の合図だった。
崖の上を風が走った。
最初は、軸が小さく震えただけだった。次に水差しの取っ手が回り、銅線が張る。塔の内部で、眠っていた歯車がひとつ、かすかに動いた。
ごう、と低い振動が石壁を下っていく。
町の方角へ伸びた陶管が、順番に震え始めた。北の家、広場の屋根、市場の柱。止まっていた皿が揺れ、軒先の鈴が一つ、また一つと鳴り出す。
音は弱かった。それでも、沈黙を破るには十分だった。
遠くで窓が開く。誰かが叫び、子どもたちの足音が通りを走る。ソレンは聞こえないはずの町を見つめ、掌を地面へ押し当てていた。
「何が伝わったんですか」
灯里が尋ねる。
ソレンはしばらく振動を読んでから、彼女を振り返った。
「西風だ」
「西風?」
「冷たい。雨を連れてくる風だ」
その直後、空から一粒の雫が落ちた。
灯里の頬を濡らした雨は、すぐに細い線となって降り始めた。町のあちこちで、皿や鈴が懸命に鳴っている。
しかし、塔の軸は長くはもたなかった。水差しの取っ手が軋み、銅線が切れる。音路は次第に弱まり、最後にはまた静かになった。
灯里は濡れた手で、外れかけた部品を握った。
そのひびの向こうから、風の記憶が聞こえていた。
部品を持ち去った者は、塔を壊したかったのではない。風の知らせを、別の場所へ送ろうとしていた。
「ソレン」
「分かっている」
彼は荷道の先を見た。
「この町の沈黙は、偶然じゃない」
雨音が二人の間を満たしていく。
灯里は初めて、帰る方法とは別の謎を、自分の意思で追いかけたいと思った。




