沈黙する町の職人
翌朝になっても、灯里は元の世界へ戻れなかった。
役所の地下にある小さな部屋で目を覚ますと、窓の外には薄紫色の空が広がっていた。壁は石造りで、扉には外から鍵がかかっている。手元にあるのは、昨夜拾い集めた雨音壺の破片と、見慣れない硬貨が三枚だけだった。
「起きたか」
扉の向こうから声がした。
開いた隙間に、昨夜の男が立っている。青い外套を脱いだ彼は、思ったより細身だった。銀色の補聴具は耳に掛かっているものの、そこから音を受け取っている様子はない。灯里が椅子を引いた音にも、彼は反応しなかった。
「ここはどこですか」
「リュネ。辺境の町だ」
「私は、どうすれば帰れますか」
「まだ分からない」
あまりにも率直な答えに、灯里は言葉を失った。
「転移した者の記録は、役所にも残っていない。門が開いた形跡もない。昨夜の壺が、こちらへ通じる何かだった可能性はあるが、壊れた今は調べようがない」
男は机の上に薄い木札を置いた。
「身分証の代わりだ。三日間だけ有効。町の外へ出ることは禁じられている」
「禁じるって……私は犯人ではありません」
「分かっている」
「分かっているなら、どうして閉じ込めるんですか」
「町の規則だ」
淡々とした返事だった。冷たい人なのだろうかと灯里は思った。しかし男の手は、木札を置いたあと、机の端を二度軽く叩いていた。何かを確かめるような仕草だった。
「あなたは、昨夜ソレンと呼ばれていましたね」
「巡回士のソレンだ」
「耳が……」
言いかけて、灯里は口をつぐんだ。
ソレンは気にした様子もなく、自分の耳元を指で示した。
「三年前の落盤事故で聴覚を失った。これは振動を拾う器具だが、壊れている。だから人の声は読める」
「読める?」
「唇と、床の揺れと、相手の呼吸でな」
彼は灯里をまっすぐ見た。
「昨夜、お前が嘘をついていないことも、ある程度は分かる」
「ある程度、ですか」
「完全に信じるほど、俺は親切ではない」
そう言ったとき、ソレンの口元がほんの少し緩んだ。
その日の昼、灯里は役所から町外れへ移された。
案内されたのは、崩れかけた窯を備えた古い工房だった。屋根には穴があり、壁際には泥と煤にまみれた陶管が積まれている。入口の看板には、かろうじて「音具修理」と読める文字が残っていた。
「ここで働け」
ソレンが言った。
「働く?」
「食事と寝床を得るには、町の役に立つ必要がある。お前は陶器を直せるのだろう」
「私は博物館の修復士です。音具職人ではありません」
「壺のひびから、誰が何をしたか聞き取った」
「それは……普通の修復とは違います」
「だから試す」
工房の奥から、ソレンは三つの器を運んできた。ひとつは細長い筒、ひとつは平たい皿、最後は小さな鈴のような陶器だった。どれもひび割れ、釉薬が剥げている。
「これは町の音路に使われていた部品だ。音路が何かは、歩けば分かる」
外へ出ると、家々の軒下に陶管が巡らされていた。管は壁から壁へ伸び、その途中に小さな皿や鈴が取り付けられている。風が吹けばどこかで音が生まれ、雨が近づけば別の音が鳴る。そうして町の人々は、目や耳の届かない場所の変化を知るのだという。
けれど、その日、町はひどく静かだった。
市場では商人が空を何度も見上げ、子どもたちは壊れた鈴を指で弾いている。音はかすかに鳴るだけで、隣の通りには届かなかった。
「沈黙している」
灯里が言うと、ソレンはうなずいた。
「ここ数か月で、音路の故障が増えた。修理部品も届かない」
「誰も直さないんですか」
「直せる職人がいない」
工房へ戻り、灯里は三つの部品に触れた。
細長い筒からは、乾いた風が聞こえた。内部を風が通り抜けるはずなのに、途中で何かに塞がれている。平たい皿からは、遠い子どもの笑い声がした。皿が鳴るたび、家々の窓が開き、人々が空を確かめていた記憶。小さな鈴からは、火の手が上がる音が聞こえた。
それは過去の音ではなかった。
これから起きるかもしれない危険を、器がまだ覚えているのだ。
「この鈴は、火事を知らせるものです」
灯里は言った。
「ひびを埋めれば、まだ使える」
「分かるのか」
「ひびが、何を失ったのかを教えてくれます」
ソレンは黙っていた。声が聞こえない彼にとって、その言葉がどんな意味を持つのか、灯里には分からなかった。
灯里は道具箱を開いた。見慣れない工具ばかりだったが、使えるものを選び、割れた鈴を洗った。ひびの周囲を削り、細い陶土を押し込む。最後に指先で表面をなぞると、鈴の奥で小さな振動が返ってきた。
ちりん。
音はごく弱かった。
それでもソレンは、床板を通じて振動を感じたらしい。顔を上げ、灯里の手元を見た。
「今のは?」
「鳴りました」
「音が?」
「はい」
ソレンは鈴を受け取り、掌に乗せた。しばらく目を閉じていたが、やがて短く息を吐いた。
「……分かる」
彼の声が、初めて揺れた。
「小さいが、振動がある」
「聞こえなくても、使い道はあります」
「そうだな」
ソレンは鈴を返し、木札を灯里の前へ押し出した。
「三日間の仮雇いを、期限なしに変える」
「帰る方法を探す約束は?」
「俺が探す。だが、お前もこの町で手を動かせ」
「監視役なのに?」
「監視は続ける」
彼は工房の壊れた窓を見た。
「ただし、見張る相手が犯人ではないなら、職人として扱う」
外では風が吹いていた。屋根に吊るされた皿が揺れたが、音は生まれなかった。
灯里は修理台へ向き直った。
帰れない不安は消えない。自分がなぜこの町へ来たのかも、誰が雨音壺を壊したのかも分からない。
それでも、沈黙の中には、かすかな声が残っている。
それを聞き取れるのは、今のところ自分だけだった。




