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雨音を継ぐ異邦人、沈黙の町であなたと暮らす  作者: 銀細工ナギ


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2/20

沈黙する町の職人

 翌朝になっても、灯里は元の世界へ戻れなかった。


 役所の地下にある小さな部屋で目を覚ますと、窓の外には薄紫色の空が広がっていた。壁は石造りで、扉には外から鍵がかかっている。手元にあるのは、昨夜拾い集めた雨音壺の破片と、見慣れない硬貨が三枚だけだった。


「起きたか」


 扉の向こうから声がした。


 開いた隙間に、昨夜の男が立っている。青い外套を脱いだ彼は、思ったより細身だった。銀色の補聴具は耳に掛かっているものの、そこから音を受け取っている様子はない。灯里が椅子を引いた音にも、彼は反応しなかった。


「ここはどこですか」


「リュネ。辺境の町だ」


「私は、どうすれば帰れますか」


「まだ分からない」


 あまりにも率直な答えに、灯里は言葉を失った。


「転移した者の記録は、役所にも残っていない。門が開いた形跡もない。昨夜の壺が、こちらへ通じる何かだった可能性はあるが、壊れた今は調べようがない」


 男は机の上に薄い木札を置いた。


「身分証の代わりだ。三日間だけ有効。町の外へ出ることは禁じられている」


「禁じるって……私は犯人ではありません」


「分かっている」


「分かっているなら、どうして閉じ込めるんですか」


「町の規則だ」


 淡々とした返事だった。冷たい人なのだろうかと灯里は思った。しかし男の手は、木札を置いたあと、机の端を二度軽く叩いていた。何かを確かめるような仕草だった。


「あなたは、昨夜ソレンと呼ばれていましたね」


「巡回士のソレンだ」


「耳が……」


 言いかけて、灯里は口をつぐんだ。


 ソレンは気にした様子もなく、自分の耳元を指で示した。


「三年前の落盤事故で聴覚を失った。これは振動を拾う器具だが、壊れている。だから人の声は読める」


「読める?」


「唇と、床の揺れと、相手の呼吸でな」


 彼は灯里をまっすぐ見た。


「昨夜、お前が嘘をついていないことも、ある程度は分かる」


「ある程度、ですか」


「完全に信じるほど、俺は親切ではない」


 そう言ったとき、ソレンの口元がほんの少し緩んだ。


 その日の昼、灯里は役所から町外れへ移された。


 案内されたのは、崩れかけた窯を備えた古い工房だった。屋根には穴があり、壁際には泥と煤にまみれた陶管が積まれている。入口の看板には、かろうじて「音具修理」と読める文字が残っていた。


「ここで働け」


 ソレンが言った。


「働く?」


「食事と寝床を得るには、町の役に立つ必要がある。お前は陶器を直せるのだろう」


「私は博物館の修復士です。音具職人ではありません」


「壺のひびから、誰が何をしたか聞き取った」


「それは……普通の修復とは違います」


「だから試す」


 工房の奥から、ソレンは三つの器を運んできた。ひとつは細長い筒、ひとつは平たい皿、最後は小さな鈴のような陶器だった。どれもひび割れ、釉薬が剥げている。


「これは町の音路に使われていた部品だ。音路が何かは、歩けば分かる」


 外へ出ると、家々の軒下に陶管が巡らされていた。管は壁から壁へ伸び、その途中に小さな皿や鈴が取り付けられている。風が吹けばどこかで音が生まれ、雨が近づけば別の音が鳴る。そうして町の人々は、目や耳の届かない場所の変化を知るのだという。


 けれど、その日、町はひどく静かだった。


 市場では商人が空を何度も見上げ、子どもたちは壊れた鈴を指で弾いている。音はかすかに鳴るだけで、隣の通りには届かなかった。


「沈黙している」


 灯里が言うと、ソレンはうなずいた。


「ここ数か月で、音路の故障が増えた。修理部品も届かない」


「誰も直さないんですか」


「直せる職人がいない」


 工房へ戻り、灯里は三つの部品に触れた。


 細長い筒からは、乾いた風が聞こえた。内部を風が通り抜けるはずなのに、途中で何かに塞がれている。平たい皿からは、遠い子どもの笑い声がした。皿が鳴るたび、家々の窓が開き、人々が空を確かめていた記憶。小さな鈴からは、火の手が上がる音が聞こえた。


 それは過去の音ではなかった。


 これから起きるかもしれない危険を、器がまだ覚えているのだ。


「この鈴は、火事を知らせるものです」


 灯里は言った。


「ひびを埋めれば、まだ使える」


「分かるのか」


「ひびが、何を失ったのかを教えてくれます」


 ソレンは黙っていた。声が聞こえない彼にとって、その言葉がどんな意味を持つのか、灯里には分からなかった。


 灯里は道具箱を開いた。見慣れない工具ばかりだったが、使えるものを選び、割れた鈴を洗った。ひびの周囲を削り、細い陶土を押し込む。最後に指先で表面をなぞると、鈴の奥で小さな振動が返ってきた。


 ちりん。


 音はごく弱かった。


 それでもソレンは、床板を通じて振動を感じたらしい。顔を上げ、灯里の手元を見た。


「今のは?」


「鳴りました」


「音が?」


「はい」


 ソレンは鈴を受け取り、掌に乗せた。しばらく目を閉じていたが、やがて短く息を吐いた。


「……分かる」


 彼の声が、初めて揺れた。


「小さいが、振動がある」


「聞こえなくても、使い道はあります」


「そうだな」


 ソレンは鈴を返し、木札を灯里の前へ押し出した。


「三日間の仮雇いを、期限なしに変える」


「帰る方法を探す約束は?」


「俺が探す。だが、お前もこの町で手を動かせ」


「監視役なのに?」


「監視は続ける」


 彼は工房の壊れた窓を見た。


「ただし、見張る相手が犯人ではないなら、職人として扱う」


 外では風が吹いていた。屋根に吊るされた皿が揺れたが、音は生まれなかった。


 灯里は修理台へ向き直った。


 帰れない不安は消えない。自分がなぜこの町へ来たのかも、誰が雨音壺を壊したのかも分からない。


 それでも、沈黙の中には、かすかな声が残っている。


 それを聞き取れるのは、今のところ自分だけだった。

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