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雨音を継ぐ異邦人、沈黙の町であなたと暮らす  作者: 銀細工ナギ


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雨音壺が割れた日

 その日、雨は降っていなかった。


 けれど、博物館の修復室には、細い雨の音が満ちていた。


 水城灯里は、机の上の壺に耳を寄せていた。両手のひらほどの大きさをした、灰青色の陶器。表面には雲を思わせる白い釉薬が流れ、胴の中央を斜めに走るひびには、古い接着剤の跡が残っている。


「……聞こえる」


 灯里は独りごちた。


 壺の内側から、ぽつ、ぽつ、と水滴の落ちる音がしていた。実際には乾ききっている。底に水はない。それでも、ひびに指を触れると、壺がかつて担っていた役割の名残が、音として伝わってくる。


 雨を知らせる壺。


 そう記された札が、展示ケースの脇にあった。遠い土地の村で、雨雲が近づくと内部の空洞が鳴り、住民に水の季節を知らせたという。壊れてから長い年月が経っているのに、灯里にはその機能の残響が聞き取れた。


 これは、ただの修復ではない。


 失われた働きを、ひびの向こうから拾い上げる。それが灯里の技能だった。誰に教わったわけでもない。幼いころから、割れた茶碗や欠けた花瓶に触れると、持ち主が忘れた音や、器が果たしてきた役割を感じ取ることができた。


 便利な力だと、以前は思っていた。


 だが修復士として働き始めてからは、気味悪がられることのほうが多かった。触れただけで「壺が泣いた」などと言えば、まともな職人には見られない。だから灯里は、聞こえたことを必要なときしか口にしなかった。


 今夜も閉館後の修復室で、ひびの状態を確かめるだけのつもりだった。


 細い筆で接着剤を塗り、ひびを合わせる。あと少しで作業を終える、そのときだった。


 壺の奥から、雨音とは違う音がした。


 ――削る音。


 灯里は指を止めた。


 ざり、ざり、と硬い刃物が陶土を削っている。しかもそれは、焼き上がった後についた傷ではない。まだ器が柔らかかった頃、内側からわざと溝を刻んだ音だった。


「……これ、自然に割れたんじゃない」


 壺のひびは、使い込まれた傷ではなかった。表面から見れば古い衝撃によるものに見える。しかし灯里が指を滑らせると、ひびの奥で音が枝分かれしている。誰かが壺の強度を落とすため、見えない場所に細工を施していた。


 その瞬間、照明が消えた。


 真っ暗になった修復室で、壺が激しく震えた。


 灯里は反射的に両手で押さえた。だが、指の下から冷たい風が噴き出してくる。窓は閉まっている。空調も止まっている。それなのに風は渦を巻き、壺の中で遠い雷のような音を立てた。


 机の上の道具が床へ落ちる。


 灯里は誰かが扉を開けたのだと思った。助けを呼ぼうとして、顔を上げる。


 そこに、見たことのない景色があった。


 修復室の白い壁は消え、夜空が広がっている。月は大きく、薄紫色の雲が地平線を覆っていた。足元には濡れた石畳。知らない家々の屋根から、細い陶管が何本も伸びている。管の先には小さな鈴や皿が吊るされ、風に揺れていた。


 灯里の手から壺が滑った。


 落ちる。


 割れる。


 その音だけが、はっきり聞こえた。


 次に目を開けたとき、灯里は石畳の上に倒れていた。雨の匂いがする。周囲には見知らぬ人々が集まり、誰もが怯えた顔で彼女と壺の破片を見下ろしていた。


「雨音壺が……!」


 誰かが叫んだ。


「この女が壊したんだ!」


「外から来たぞ。役所へ知らせろ!」


 灯里は起き上がろうとしたが、足に力が入らなかった。目の前には、青い外套を着た男が立っている。男は周囲の声に反応しなかった。顔を少し傾け、地面に散った破片へ手を伸ばしている。


 その耳元には、銀色の補聴具のようなものがあった。しかし男の目は、音のした方向を探していない。


「触るな」


 低い声で、男が言った。


 灯里は慌てて手を引っ込めた。


「違います。私が壊したわけじゃありません。これは……最初から、壊されるように細工されていました」


 誰も信じていない。


 男だけが、灯里の顔を見た。瞳の色は薄い灰色だった。


「証拠は?」


「ひびの内側に、削った跡があります」


 灯里は破片の一つを拾い上げた。指先に触れた瞬間、また音が響く。


 ざり、ざり。


 続いて、重い箱を引きずる音。複数の足音。そして、誰かの声。


『これで、リュネには雨が届かない』


 灯里の背筋が凍った。


「……今、聞こえました」


「何がだ」


 男が問う。


「この壺を壊した人の声です。誰かが、雨を届かなくするために細工した」


 ざわめきが広がった。


 男は破片を受け取り、目ではなく指で縁をなぞった。やがて顔を上げる。


「この傷は、落としただけではできない」


「ソレン、何を言っている!」


 群衆の後ろから、役人らしい男が怒鳴った。


 ソレンと呼ばれた男は、静かに答えた。


「この女が壊したという証拠はない」


「では、異国の女を信用するのか!」


「信用はしていない。だが、壺の破損と彼女の出現は別の問題だ」


 その言葉に、灯里は息をのんだ。


 ここはどこなのか。なぜ自分はここにいるのか。帰れるのか。何一つ分からない。


 ただ、割れた壺の中には、まだ雨音が残っていた。


 ぽつ、ぽつ、と。


 遠い町へ届くはずだった知らせが、誰かの手によって閉ざされている。


 ソレンは灯里に背を向け、役所の男たちへ告げた。


「彼女を拘束する前に、壺の内部を調べる。故意の加工なら、犯人はこの町の中にいる」


 灯里は散らばった破片を見つめた。


 異世界に落ちたばかりの自分が、なぜ事件の真ん中にいるのかは分からない。


 けれど、ひびの向こうから聞こえた声は、まだ消えていなかった。


『雨を盗めば、町は沈黙する』


 その意味を知るまで、灯里はここを離れられない気がした。

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