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雨音を継ぐ異邦人、沈黙の町であなたと暮らす  作者: 銀細工ナギ


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14/20

選ぶための沈黙

 請願書を中央へ届ける方法は、夜になるまで決まらなかった。


 役所の使いは広場の入口に残り、町の動きを見張っている。正面の街道は封鎖され、役所へ続く裏道には見慣れない男たちが立っていた。灯里は工房の窓から外を眺めながら、机の上に広げた地図を指でなぞった。


「中央へ行くなら、明日の朝一番に出るべきです」


 向かいに座るソレンは、紙に書かれた言葉を読み、首を横に振った。


――俺が行く。


「ひとりで?」


――巡回路を知っている。元巡回士なら、中央門までの検問も抜けられる。


 灯里は彼の胸元を見た。そこにはもう、巡回士の徽章がない。役所に返したのではなく、封印を破った罪として取り上げられたのだ。


「その資格は失われています」


――資格がなくても道は覚えている。


「でも、あなたを捕まえる理由は向こうにいくらでもある」


 ソレンの指が止まった。


 灯里は言葉を続けようとして、やめた。工房の中には、広場から伝わるかすかな振動があった。住民たちが陶器を叩いて、交代で見張りをしているのだ。音路が沈黙しても、町の人々は手で合図をつなげている。


 その振動を感じながら、灯里は自分の胸の奥にあるものを確かめた。


 怖い。


 中央へ行けば、異世界から来た身元不明者として拘束されるかもしれない。帰還の手がかりを奪われるかもしれない。雨音壺を修復するために必要な部品を、二度と取り戻せないかもしれない。


 だからといって、ソレンだけを危険な道へ送り出すことはできなかった。


「私も行きます」


 ソレンはすぐに手を上げた。


――だめだ。


「どうして」


――灯里は帰る方法を探している。中央に知られれば、利用される。


「あなたは利用されてもいいんですか」


 問いかけると、彼の手が下がった。


 灯里は自分でも驚くほど、声が震えていることに気づいた。


「私を守るために、あなたがひとりで全部背負うのは違います。私はもう、守られているだけの人ではありません」


 ソレンはじっと彼女を見た。音を失った彼の視線は、いつも灯里の表情や口元を確かめようとする。その静かな目に、迷いが揺れていた。


「私は修復士です。壊れたものを見つけて、どう直すかを考えることができます。あなたは道を知っていて、振動を読める。住民には記録と証言がある。全部をひとりで使う必要はないでしょう」


 灯里は請願書を二つに折った。


「責任も、二人で分けます」


 ソレンは手を伸ばし、彼女の掌に指先で文字を書いた。


――危険だ。


「ええ」


――戻れないかもしれない。


「それも、分かっています」


――それでも?


 灯里は答えなかった。


 窓の外では、雲の切れ間から月が覗いていた。遠くの山際に、黒い雲が重なっている。風読み塔が動かないせいで、嵐の正確な時刻は分からない。それでも、空気の重さだけは日に日に増していた。


 戻れないかもしれない。


 その言葉は、帰還の可能性だけを指しているのではない。中央へ行けば、灯里もソレンも、今までの場所へ戻れなくなるかもしれない。工房も、広場の人々も、何もかも変わる。


 灯里は雨音壺の修復に使える核心部品を思い出した。あれを取り戻せば、元の世界への道が開く。けれど同時に、町の音路を直すために使った部品を取り外さなければならない。


 帰ることは、選べる。


 ただし、選べるからこそ、迷っていた。


 ソレンがもう一度、掌へ文字を書いた。


――灯里。


 いつもなら名前だけで終わる呼びかけだった。けれどそのあと、彼は指を止めずに続けた。


――俺は、君を帰したい。


 灯里の呼吸が浅くなる。


――君が望む場所へ行けるようにしたい。ここに残れと言うつもりはない。俺のそばを選べとも言わない。


 彼は手を引こうとした。灯里はその手首をつかんだ。


 ソレンは驚いたように目を見開く。


――それでも、君がいなくなると考えると、怖い。


 指先から伝わる文字は、かすかに震えていた。


――君といる時間を、仕事の相棒だから大切にしているのではない。君が灯里だから、失いたくない。


 沈黙が落ちた。


 音を失ったソレンにとって、沈黙はいつものものだ。灯里にとっては、答えを急がずに済む時間だった。


 彼女は彼の手を両手で包んだ。


「私も、あなたを失いたくありません」


 ソレンの指が動く。


――それは、同じ意味か?


「たぶん、まだうまく言えません」


 灯里は正直に答えた。


「私は元の世界に家族も仕事もあります。帰りたいと思う瞬間は、これからもきっとあります。でも、リュネを離れたくないと思う気持ちも、あなたと先のことを考えたいと思う気持ちも、嘘ではありません」


 彼女は彼の手を、自分の胸元へ導いた。


「だから、私に選ばせてください。誰かに守られるためではなく、私自身が選ぶために」


 ソレンの掌に、灯里の鼓動が伝わる。


 しばらくして、彼はゆっくりとうなずいた。


――分かった。


 それから彼は、灯里の額に自分の額を触れさせた。聴覚を失った彼にとって、それは音の代わりの約束だった。


――二人で行く。


 翌朝、町の人々は中央行きの一行を見送るため、広場に集まった。ミナは焼きたてのパンを袋に詰め、ガドは旧街道の抜け道を記した板を渡した。子どもたちは請願書の写しを何枚も抱えている。


 灯里は工房の扉を閉める前に、修復途中の雨音壺へ触れた。


 ひびの奥から、遠い雨の気配が聞こえた。


 戻る道は、まだ消えていない。


 けれど今は、その道をひとりで選ぶ必要もなかった。


 ソレンが手を差し出す。


 灯里はその手を取った。


 町の中央広場から、陶器を叩く合図がひとつ鳴る。続いて、別の場所から二つ、三つと返ってきた。


 沈黙は、終わりではない。


 選ぶために、二人が並んで立つための時間だった。

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