選ぶための沈黙
請願書を中央へ届ける方法は、夜になるまで決まらなかった。
役所の使いは広場の入口に残り、町の動きを見張っている。正面の街道は封鎖され、役所へ続く裏道には見慣れない男たちが立っていた。灯里は工房の窓から外を眺めながら、机の上に広げた地図を指でなぞった。
「中央へ行くなら、明日の朝一番に出るべきです」
向かいに座るソレンは、紙に書かれた言葉を読み、首を横に振った。
――俺が行く。
「ひとりで?」
――巡回路を知っている。元巡回士なら、中央門までの検問も抜けられる。
灯里は彼の胸元を見た。そこにはもう、巡回士の徽章がない。役所に返したのではなく、封印を破った罪として取り上げられたのだ。
「その資格は失われています」
――資格がなくても道は覚えている。
「でも、あなたを捕まえる理由は向こうにいくらでもある」
ソレンの指が止まった。
灯里は言葉を続けようとして、やめた。工房の中には、広場から伝わるかすかな振動があった。住民たちが陶器を叩いて、交代で見張りをしているのだ。音路が沈黙しても、町の人々は手で合図をつなげている。
その振動を感じながら、灯里は自分の胸の奥にあるものを確かめた。
怖い。
中央へ行けば、異世界から来た身元不明者として拘束されるかもしれない。帰還の手がかりを奪われるかもしれない。雨音壺を修復するために必要な部品を、二度と取り戻せないかもしれない。
だからといって、ソレンだけを危険な道へ送り出すことはできなかった。
「私も行きます」
ソレンはすぐに手を上げた。
――だめだ。
「どうして」
――灯里は帰る方法を探している。中央に知られれば、利用される。
「あなたは利用されてもいいんですか」
問いかけると、彼の手が下がった。
灯里は自分でも驚くほど、声が震えていることに気づいた。
「私を守るために、あなたがひとりで全部背負うのは違います。私はもう、守られているだけの人ではありません」
ソレンはじっと彼女を見た。音を失った彼の視線は、いつも灯里の表情や口元を確かめようとする。その静かな目に、迷いが揺れていた。
「私は修復士です。壊れたものを見つけて、どう直すかを考えることができます。あなたは道を知っていて、振動を読める。住民には記録と証言がある。全部をひとりで使う必要はないでしょう」
灯里は請願書を二つに折った。
「責任も、二人で分けます」
ソレンは手を伸ばし、彼女の掌に指先で文字を書いた。
――危険だ。
「ええ」
――戻れないかもしれない。
「それも、分かっています」
――それでも?
灯里は答えなかった。
窓の外では、雲の切れ間から月が覗いていた。遠くの山際に、黒い雲が重なっている。風読み塔が動かないせいで、嵐の正確な時刻は分からない。それでも、空気の重さだけは日に日に増していた。
戻れないかもしれない。
その言葉は、帰還の可能性だけを指しているのではない。中央へ行けば、灯里もソレンも、今までの場所へ戻れなくなるかもしれない。工房も、広場の人々も、何もかも変わる。
灯里は雨音壺の修復に使える核心部品を思い出した。あれを取り戻せば、元の世界への道が開く。けれど同時に、町の音路を直すために使った部品を取り外さなければならない。
帰ることは、選べる。
ただし、選べるからこそ、迷っていた。
ソレンがもう一度、掌へ文字を書いた。
――灯里。
いつもなら名前だけで終わる呼びかけだった。けれどそのあと、彼は指を止めずに続けた。
――俺は、君を帰したい。
灯里の呼吸が浅くなる。
――君が望む場所へ行けるようにしたい。ここに残れと言うつもりはない。俺のそばを選べとも言わない。
彼は手を引こうとした。灯里はその手首をつかんだ。
ソレンは驚いたように目を見開く。
――それでも、君がいなくなると考えると、怖い。
指先から伝わる文字は、かすかに震えていた。
――君といる時間を、仕事の相棒だから大切にしているのではない。君が灯里だから、失いたくない。
沈黙が落ちた。
音を失ったソレンにとって、沈黙はいつものものだ。灯里にとっては、答えを急がずに済む時間だった。
彼女は彼の手を両手で包んだ。
「私も、あなたを失いたくありません」
ソレンの指が動く。
――それは、同じ意味か?
「たぶん、まだうまく言えません」
灯里は正直に答えた。
「私は元の世界に家族も仕事もあります。帰りたいと思う瞬間は、これからもきっとあります。でも、リュネを離れたくないと思う気持ちも、あなたと先のことを考えたいと思う気持ちも、嘘ではありません」
彼女は彼の手を、自分の胸元へ導いた。
「だから、私に選ばせてください。誰かに守られるためではなく、私自身が選ぶために」
ソレンの掌に、灯里の鼓動が伝わる。
しばらくして、彼はゆっくりとうなずいた。
――分かった。
それから彼は、灯里の額に自分の額を触れさせた。聴覚を失った彼にとって、それは音の代わりの約束だった。
――二人で行く。
翌朝、町の人々は中央行きの一行を見送るため、広場に集まった。ミナは焼きたてのパンを袋に詰め、ガドは旧街道の抜け道を記した板を渡した。子どもたちは請願書の写しを何枚も抱えている。
灯里は工房の扉を閉める前に、修復途中の雨音壺へ触れた。
ひびの奥から、遠い雨の気配が聞こえた。
戻る道は、まだ消えていない。
けれど今は、その道をひとりで選ぶ必要もなかった。
ソレンが手を差し出す。
灯里はその手を取った。
町の中央広場から、陶器を叩く合図がひとつ鳴る。続いて、別の場所から二つ、三つと返ってきた。
沈黙は、終わりではない。
選ぶために、二人が並んで立つための時間だった。




