第29話 ボルトン家の夜
深夜。
ボルトン家は静まり返っていた。
広い屋敷。
昼は賑やかだった廊下も、
今は静かだ。
その中を、
一人の影が歩く。
セイルだった。
「……少しだけ」
小さく呟く。
手には水の入った木桶。
向かった先は、
屋敷の庭だった。
⸻
夜風が涼しい。
月明かりが庭を照らしている。
「アイスボール……」
セイルが小さく魔力を込める。
だが。
何も起きない。
「やっぱり簡単じゃないか……」
レシピがある。
でも、
出来るわけじゃない。
感覚が必要だ。
魔力の流れ。
冷やすイメージ。
凍らせる感覚。
「……もう一回」
セイルは諦めず、
再び手を前へ出した。
「アイスボール」
ぽわっ。
わずかに冷気が漏れる。
木桶の水面に、
ほんの少しだけ霜が浮かんだ。
「……!」
成功。
いや、
成功未満。
それでも、
確かに前進だった。
セイルは少し笑う。
「難しいな……」
だが、
嫌ではなかった。
出来なかった事が、
少しずつ出来るようになる。
それが、
今は楽しかった。
⸻
その時。
「……何してるの?」
後ろから声がした。
セイルが振り向く。
そこにいたのは、
レナだった。
「レナ?」
「目が覚めたから」
そう言いながら、
庭へ入ってくる。
そして。
木桶を見る。
霜を見る。
少しだけ目を細めた。
「……アイスボール?」
「うん」
セイルが苦笑する。
「レシピ取ったから、
練習してみようかなって」
「こんな時間に?」
「昼は討伐あるし」
当たり前のように言う。
レナは少し黙った。
セイルはまた手を前へ向ける。
「アイスボール」
ぽわっ。
冷気。
少しずつ。
だが確実に、
形になっていく。
レナはそれを静かに見ていた。
(また……)
胸の奥が、
少しだけざわつく。
サーチ。
ウィンド。
短剣術。
そして今度は氷魔法。
セイルは、
止まらない。
努力して。
覚えて。
強くなっていく。
悪い事じゃない。
むしろ凄いと思う。
なのに——
(私にしか出来ない事……)
ふと、
そんな考えが頭をよぎった。
その時だった。
視線の先。
庭へ続く廊下の壁。
そこに、
一本の弓が飾られていた。
細く美しい長弓。
装飾入り。
実用品というより、
高級品だろう。
昼間は気づかなかった。
レナは、
その弓を静かに見つめる。
遠距離。
索敵。
支援。
自分に向いている気がした。
「レナ?」
セイルの声。
「……え?」
「どうしたの?」
レナは小さく首を振る。
「なんでもない」
そう言いながら、
視線を弓から外した。
まだ。
本当に考え始めただけだ。
⸻
セイルが再び手を前へ向ける。
「アイスボール」
ぽわっ——
今度は、
木桶の水面が少しだけ凍った。
「おぉ……!」
セイルが少し嬉しそうに笑う。
その顔を見て、
レナも小さく笑った。
「……頑張りすぎて倒れないでよ」
「大丈夫」
セイルが笑う。
「まだまだ全然だから」
その言葉が、
少しだけ眩しく見えた。
⸻
静かな夜。
月明かり。
冷たい空気。
そして——
少しずつ変わり始める、
仲間達の想い。
ラグナスの夜は、
静かに更けていった。




