舌のない地獄
「あとは結果待ちだ。結果までの間、研修を再開させよう。質問を出してくれ」
アガヅマの声が現実に引き戻す。
俺は息を整え、再び考える。
浮かんできた疑問を、そのまま口にした。
「嘘は罪なので、嘘をつくと地獄に落とされ、閻魔大王に舌を抜かれると聞きましたが、それはどうなってるんですか?」
一瞬の間。
「あぁ……まず“罪”という概念が難しいんだよ」
アガヅマはそう言うと、急に歩き出した。
言葉と一緒に、体も動き出す。
「上げ底は罪か? 猟師がはる罠は?」
「胸をあげるのは? メイクは? 心にもないお世辞は?」
「作家や芸人の作り話は? 営業マンの営業トークは? 優しいウソは?」
矢継ぎ早に投げられる問い。
答えを求めているわけじゃない。ただ、揺さぶってくる。
「人間関係を円滑に進めるためのものもある。ウソにより戦を止めたケースもある」
アガヅマの手が大きく振られる。
言葉に合わせて、空気が揺れる。
「人は一日に数百回ウソをつく。ということで、舌を抜くのはやめたんだよ」
最後の一言が、妙に軽く落ちた。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
「じゃあ地獄に来るのはどんな人なのですか?」
問いを投げた瞬間、空気がわずかに沈んだ。
「完全に黒の人たちだ。グレーゾーンは地獄には来ない」
アガヅマの声は、乾いていた。
切り分けるように、迷いがない。
俺は言葉を選びながらも、結局そのまま口に出してしまう。
「あの……こういっちゃなんですが、被害者に救いがないですよね」
一瞬、静寂。
女が、軽く手をあげた。
「それ私も同じ質問したよぉ。私が答えても良い?」
アガヅマは短く頷く。
女は一歩前に出た。
声のトーンが、少しだけ柔らかくなる。
「地獄の亡者は、バーチャルな支援を行うことで、人間界と天界に貢献する」
言葉が、静かに広がる。
「その貢献度で、功徳ポイントが支払われる。ここまでは良いかな?」
視線がこちらに向く。
俺は、小さく頷いた。
「その功徳ポイントは、被害者に支払われるの。これがどういう意味かわかるよね」
女の声。
俺は少しだけ考えて、口を開く。
「幸運が訪れたりするって事ですか?」
「まぁそれに近いかな……」
女は、ゆっくりと天上を見上げた。
白く曖昧な光が、鬼の仮面に反射する。
「厳密に言うと、不幸が避けられたりすることもある」
言葉は、噛みしめるように出てきた。
……そうか。
もし、それが本当なら。
ほんの少しだけ、均衡は取れるのかもしれない。
胸の奥に、わずかな納得。
だが、それでも足りない気がした。
「……もし被害者が亡くなった場合は?」
自分でも、踏み込みすぎだと思った。
それでも、止まらなかった。
「亡くなった場合は転生後に、功徳ポイント還元されるのよ」
女は淡々と言った。
システムとしては、理解できる。
帳尻は合っている。理屈も通っている。
……でも。
それで、いいのか。
胸の奥に残るのは、別の問いだった。
「それで皆納得してるのですか……」
言葉が、思ったよりも重く感じた。
アガヅマが、ゆっくりと手をあげた。
場の空気が、わずかに整う。
「一応な」
その一言で、場が引き締まる。
「死者に定期的にアンケートを取り、刑罰の調整をしているのだ」
淡々とした口調。だが、その内容は重い。
「現在は九割幸福ポイント還元、一割を苦痛還元という事になっている。始めた当初は八割苦痛還元。二割幸福ポイント還元だったそうだが……」
数字が、冷たく並ぶ。
まるで感情を切り離した、純粋な設計図のように。
俺は、その差に引っかかる。
「加害者に復讐しても、仕方がないと思ったという事でしょうか?」
言葉は慎重に選んだはずだった。
だが、空気は少しだけ軋んだ。
「どうなのだろう」
アガヅマは即答しない。
視線をわずかに逸らし、何かを測るように間を置く。
「転生する際に、幸福ポイントがどのような効果があるか? ここらへんの広報の効果が出だしたのが大きいのかもな」
「もしかして、苦痛を与えるのを、地獄側も嫌がっているのでは?」
言葉を選びながら、俺は確かめるように口にした。
静寂が、ほんのわずかに揺れる。
教官が、ゆっくりと手をあげる。
その動きには、どこか重さがあった。
「痛みを受けている者を近くで見るのは、極悪人であれ、それは苦痛です」
低く、抑えた声。
だが、その奥にあるものは隠しきれていない。
「私たちは霊体ですが、それでもPTSDに近い症状になることも少なくない」
その言葉が落ちた瞬間、空気の温度が変わった気がした。
見えないはずの“痛み”が、そこに滲む。
俺は何も言えない。
ただ、立ち尽くす。
「つまりーー」
アガヅマが静かに引き取る。
「加害者を保護しているというより、地獄側で働く者たちの保護という側面が大きいのだよ」
淡々とした説明。
だが、それはどこか言い訳にも似て聞こえた。
俺は自分の足元を見た。
輪郭の曖昧な床に、自分の影だけがやけに濃い。
ーー正しさと、耐えられることは、別の話か。
「あの……完全な黒しか地獄にいかないのは……、罪という概念が難しいからですか」
声が、少しだけ低くなる。
自分でも、踏み込みすぎているとわかっていた。
「あぁそうだ。罪という概念は時代によっても、その人の環境によっても変わる」
アガヅマの声は、揺れない。
静まり返った室内に、亡者たちのタイピング音だけが響く。
規則正しく、無機質にーーまるで自動織機が世界を編み直しているみたいだ。
「正義というのは、一方的な見方だ」
その言葉が、ゆっくりと染みこむ。
「ある意味、悪魔が天使的に描かれ、天使が悪魔的に描かれる事さえある。
真実は一つというが、真実すら曖昧模糊としたものなのだよ」
空気が、わずかに濁る。
俺は、それでも止まらなかった。
「それでも悪はあると……」
一歩、踏み込む。
本当は、ここでやめるべきだとわかっている。
それでも、知りたい。




