神と地獄の結託
喉の奥が、わずかにむかつく。
聞いてはいけないものに触れている気がした。
それでも――聞かずにはいられない。
「あの……神様と地獄って、結託しているんですか」
言った瞬間、空気が凍りつく。
音が消える。
キーボードの打鍵も、呼吸も、すべてが一拍だけ止まった気がした。
――やばい。
踏み込んだ。
引き返せない場所に、足を入れた。
「すみません。忘れてください」
慌てて言葉を引っ込める。
そのときだった。
「ぷわっははははは」
乾いた爆発音みたいな笑いが、室内に響く。
亡者たちの手が、一斉に止まる。
ゆっくりと、こちらを振り向く。
顔には、黄色い札。
札には朱赤で文字が書かれてあった。
鬼教官が、木刀を床に叩きつける。
――どん。
重い音が、空気を押し戻す。
次の瞬間、亡者たちは何事もなかったかのように、またキーボードを打ち始めた。
世界が、元に戻る。
「あぁ、すまん。すまん」
アガヅマの笑いが、ようやく収まる。
「あまりにも滑稽な質問でな」
面の奥から、低い声が転がる。
さっきまでとは違う。
ほんの少しだけ、愉快そうに。
「もぉう。笑っちゃ可哀そうですよ」
女も肩を震わせている。面の奥で、確実に笑っているのが分かる。
――完全に、笑われてる。
「あのな。地獄というのは、天界の管轄する刑務所みたいなところなんだ」
アガヅマの声が、落ち着きを取り戻す。
「刑務所……ですか」
言葉は分かるのに、実感が追いつかない。
「お前は、地獄と天国や極楽が完全に別物だと思っていただろ」
「……はい」
「それは半分正解で、半分間違いだ。地獄は天界の一部だ。逆の側面、と言ってもいい」
逆の側面。
頭の中で、認識がするりと替わる。
光と影みたいに、同じものの裏表。
そういうことか……。
「基本的にね、神っていうのは、人間界にあまり介入できないのよ」
女が、軽く言う。
「その制約を回避する一つの手段が、地獄だ。わかるか」
アガヅマが続ける。
「……要は、地獄は天界の刑務所みたいなところで」
言葉を選びながら、頭の中で組み立てる。
三人が、ゆっくりとうなずく。
――合っている。
「看守は、自衛官出身の教官殿」
もう一度、うなずき。
少しだけ、霧が晴れる。
「……じゃあ、俺は何の役割ですか?」
自分の立ち位置を、確かめるように聞く。
アガヅマが、ほんのわずかに視線を下げた。
「俺や君、彼女の役回りは、教官や亡者の補佐だ」
一拍。
「それに加えて、事件や事故の調査。現実への微調整も行う」
その言葉で、足元が少し揺れる。
――現実を、調整する。
「具体的に見せてあげたら?」
女が、軽く首を傾ける。
「そうだな」
アガヅマは頷くと、どこからともなく一冊の資料を取り出した。
「これは、とある場所で起きたタンカー事故だ」
アガヅマの声に合わせて、俺は資料に目を落とす。
海図のような図面。時系列のログ。関係者の名前と矢印。
無機質な情報なのに、どこか生々しい。
「こういう案件は通常、政界や経済界が自らの既得権益のために動く。うまく噛み合えば問題なく進むが――傷がつくとなると、途端に消極的になる」
ページをめくる指が、少し重くなる。
――現実だ。
見たこともないはずの出来事なのに、妙に納得してしまう。
「そこで亡者たちが、利害関係者の行動に対して微小な介入をする」
アガヅマの指が、図の一部をなぞる。
「だが、地獄や天界からだけでは見えないデータもある。情報が足りなければ、効果は鈍る」
矢印が、途中で途切れている。
「そこで、人間界からアクセスできる情報を補う。それも、お前たちの役割の一つだ」
線が、再び繋がる。
動きが、滑らかになる。
「……つまり、地獄が問題を解決していると」
言葉にすると、少しだけ怖くなる。
「いや、それは違う」
即座に、アガヅマが否定する。
「あくまで解決しているのは人間だ」
一拍。
「我々は、その最善が“スムーズに進むように”微調整しているだけだ」
その言い方が、妙に引っかかる。
――微調整。
ほんの少し、傾きを変えるだけ。
けれど、その“ほんの少し”が、結果を大きく変える。
俺は資料から顔を上げる。
外の世界は、今も普通に動いている。
ただ、その裏で――
見えない手が、静かに触れているだけだ。
合理的すぎる。
俺の知っていた「地獄」の輪郭が、目の前で崩れていく。
ただの企業体にしか見えない。
違和感だけが、胸に残る。
「……少し話は離れますが、賽の河原の石積みはどうなったんですか?」
気づけば、口に出していた。
子供の頃に聞いた話。
親より早く死んだ子供が、石を積み上げては、鬼に壊される。
あまりにも理不尽で、どこか引っかかっていた。
親にとっても、子にとっても、救いがない。
そのイメージが、頭の奥でくすぶっている。
女が、すっと手を挙げた。
「それは私が答えるわ」
アガヅマと教官が、無言で頷く。
「その地獄はね、地獄1.0以前の話。それ以降は存在しないの」
女の声が、静かに落ちる。
「……どういう事ですか?」
俺は聞き返す。
女は少しだけ間を置いてから、続けた。
「この話が広がった時代はね、飢えや貧困、衛生環境、医療技術――全部が今よりずっと低かったの。だから、子供が早く亡くなることが多かった」
俺は、ゆっくりとうなずく。
それは、分かる。
「そこでね、“子供が亡くなることは罪だ”っていう形にしたの。その象徴として、あの地獄が作られた」
言葉の端に、少しだけ重さが滲む。
「でも――」
一拍。
「批判が殺到して、この地獄は早々に廃止されたわ」
あっさりと言う。
「……そうなんですか」
胸の奥にあった、引っかかりが少しだけほどける。
「しかし私たちは未だに、賽の河原の石積みの話を覚えています」
口に出してみると、その残り方が不思議に思える。
「そうね」
女が小さくうなずく。
「実はね、いろんな筋を使って、“もう廃止された”って広報してるのよ」
軽く笑う。




