地獄の仕組み
「ふふふ。そう思うわよね。私も思ったよぉ」
女がくるりと回る。面越しなのに、確かに笑った気配が伝わる。
「……今、笑顔ですか?」
思わず聞く。
「そうよ。なんとなく分かるでしょ」
軽い声。
「はい……なんとなく」
不思議と、分かる。理由はないのに、空気で伝わる。
少しだけ、嬉しくなる。
「……あの、地獄って言えば、鬼とか亡者がいるイメージなんですけど」
口に出すと、自分でも古い固定観念だと思う。
「ふふふ。鬼は私たち」
女が、自分の面にそっと触れる。
その指先が、白い角の上をなぞる。
「亡者は仕事中だ。今から向かう」
アガヅマが、前を見たまま言う。
鬼が、人間。
頭の中で、その二つがうまく重ならない。
違和感だけが残る。
「……鬼は、人間なんですか?」
俺は、確かめるように尋ねる。
風が一度だけ、芝生を撫でた。
「そうよ。鬼は人間。とはいえ、私たちはホワイトカラー。現場は元人間がやってるわ」
女の声が、軽く流れる。
――元人間。
その言葉だけが、引っかかる。
意味が、うまく繋がらないまま、俺は歩かされる。
「ついたぞ」
アガヅマが言う。
気づけば、建物の中にいた。
規則正しく並んだデスク。無数のモニターの光。
そこに座る人影が、無言でキーボードを叩いている。
音だけが、均一に響く。
顔は見えない。
いや――見ようとしていないのかもしれない。
その列を、ゆっくりと歩く。
奥には、一人だけ立っている影があった。
軍服。
鬼の面。
腕を組み、微動だにせず、全体を見渡している。
空気が、そこだけ少し張り詰めている。
「ここで作業をしているのが、亡者だよぉ」
女の声。
「……あの軍服の男は、元人間だ」
アガヅマが続ける。
視線が、自然とそこへ吸い寄せられる。
あの存在だけ、少し違う。
温度がない。
「……あの“元人間”って、俺たちと何が違うんですか?」
問いかけると、アガヅマは一瞬目を閉じた。
「あぁ、そうだな。彼は死んでいるんだ」
淡々とした答え。
「死んで、転生する前の少しの間。ここで教官をしてもらっている」
その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走る。
――死んでいる。
なのに、そこに立っている。
腕を組んだまま、動かない。
俺を見ている気がした。
アガヅマが軽く手を上げる。
その動きに応じるように、教官がこちらへ歩いてくる。
足音が、やけに重い。
「彼が新入りですか?」
低い声。抑えられているのに、どこか圧がある。
「はじめまして。コダマヒトシです」
反射的に頭を下げる。
「ここでは自己紹介は必要ない」
横から、アガヅマが止める。
言葉が、途中で切れる。
教官は、面越しにわずかに肩を揺らした。
苦笑しているのが、なんとなく分かる。
「よろしくな。俺は元自衛官だ。鬼教官って言われててな」
淡々とした語り口。
「死んだら、その実績を買われて、ここで働くことになった。任期は五年だ」
さらりと言う。
――死んだら。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
実績を買われて。
任期があって。
働く。
現実と非現実が、同じ温度で並べられる。
思考が追いつかない。
目の前の教官は、腕を組んだまま、動かない。
生きているのか、死んでいるのか。
その境界が、曖昧になる。
俺の中で、何かがゆっくりと崩れ始めていた。
「地獄って……ずいぶんイメージが違うんですね」
思わず漏れる。
「そうでしょ。私も最初はびっくりした」
女が軽く笑う。
「それは私もです。ここに来て一年ですが、亡者が働かされることにまず驚きました」
教官が、腕を組んだまま言う。
アガヅマが顎を引く。
「こいつに、軽く説明してやってくれ」
教官は一度だけ考えるように間を置いた。
「どこから説明しましょうか?」
視線がアガヅマへ流れる。
「そうだな。お前は質問がないか?質問していけ。この中で誰かが答えてやる」
投げるような言い方。
――研修は、ないのか。
一瞬そう思うが、すぐに飲み込む。
俺は画面に向かっている亡者たちを見る。
無言で、同じ動作を繰り返している。
「……亡者は、何の仕事をしているんですか?」
「それは私が答えよう」
アガヅマが、わずかに手を上げる。
「亡者は基本的に、人間界や天界の問題事を解決している」
静かな声。
――問題を解決。
言葉は分かるのに、輪郭がぼやけている。
「……パソコンで、ですか?」
確認するように聞く。
「亡者は物理的な身体を持たない。霊体だ。現地に行って何かをすることはできない」
アガヅマは続ける。
「だから、パソコンを使って“バーチャル”に干渉する。選択肢の提示、思考の誘導、確率の微調整――そういう形で問題解決の手伝いをしている」
画面の中のカーソルが、わずかに動く。
誰かの人生に、見えない指が触れているみたいに。
わかるような、わからないような。
「私たちホワイトカラーは、パソコンや文書で仕事をするでしょ?」
女が軽く言う。
「工場や現場ではブルーカラーが動く。でも亡者はね、ホワイトカラー寄りなの。身体がないから、“現場”に行けないだけ」
その言い方で、少しだけ腑に落ちる。
――現場に行けないから、頭で動かす。
目の前の亡者たちは、相変わらず無言でキーボードを叩いている。
その動き一つひとつが、どこか別の場所の現実を、静かに書き換えている気がした。
「この仕事をして……どういう意味があるんですか?」
俺の声は、少しだけ乾いていた。
アガヅマが、ほんのわずかに視線を上げる。
「問題事を解決すると、“功徳ポイント”というものが支払われる」
功徳ポイント。
聞き慣れない単語が、頭の中で浮く。
「……それは、なんですか?」
女が、軽く手を挙げる。
「功徳ポイントっていうのはね、天界から支払われるものなの。いわば――ラッキーポイント」
さらりと言う。
ラッキーポイント。
現実味のない言葉が、さらに現実を遠ざける。
「……そんなものを貰って、どうするんですか?」
問い返すと、アガヅマが続けた。
「あぁ。うちの会社は地獄3.0だが、さっき言った通り、表向きの企業がある」
一度、間を置く。
「あの企業の傘下には、無数の会社がある。その業績が、自然と上がっていく」
静かな説明。
画面の向こうで、誰かがキーボードを打ち続けている。
「功徳ポイントはな、“運”として配分される」
アガヅマの声が、わずかに低くなる。
「市場の流れ、偶然の出会い、意思決定の微妙な傾き――そういう“偶然”を、こちら側で少しだけ有利に寄せる」
女がくすっと笑う。
「つまりね、頑張れば頑張るほど、“勝ちやすい世界”が出来上がるのよ」




