便利すぎるシステム
「では……俺は、これからどうしたらいいですか?」
自分の声が、少しだけ遠く聞こえる。
「今からインターンに参加してもらう」
アガヅマは迷いなく言う。
「でも……内定辞退の連絡をしないと」
現実にしがみつくように、言葉を出す。
「もうそれは送っておいたわよぉ」
女が、いつもの調子で微笑む。
――意味が、分からない。
女が、すっと指を伸ばす。俺のポケットを指し示す。
反射的にスマホを取り出す。
画面を開く。
新着メール。
件名――内定辞退の受理について。
喉がひくりと動く。
「……俺、辞退の連絡なんてしてません」
声が、わずかに上ずる。
「送信履歴、見てみなさい」
女が近づく。
距離が、一気に縮まる。
甘い香りが、ふっと鼻をかすめる。思考が一瞬だけ鈍る。
指先が、俺のスマホの画面をなぞる。
送信履歴。
そこに――見覚えのない、送信済みのメールが並んでいた。
送信履歴を開く。
そこに並んでいたのは、完璧に整った断り文句だった。
どこに出しても恥ずかしくない、丁寧で、無機質で、温度のない文章。
一通。
二通。
三通。
四通。
すべて、三十秒おきに送信されている。
たった二分。
それだけで――一年間。
いや、生まれてから二十二年間、積み上げてきたものが、静かに折られていた。
指先が、わずかに震える。
「……ちょっと、ひどくないですか?」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
便利だとは思う。
無駄がない。正確だ。完璧だ。
でも――
あまりにも、容赦がなかった。
顔を上げる。
アガヅマは、何も言わない。
女も、ただ静かにこちらを見ている。
その沈黙が、さっきまでよりも重く、深く、胸に沈んだ。
抗議しても、無駄だ。
そう分かった瞬間、力が抜けた。あっさりと、諦める。
――ああ、これが。
頭がゆるい、ということか。
抵抗をやめた途端、世界の輪郭が少しだけ柔らかくなる。きつく締めつけていた何かが、ほどけていく。
たしかに、ゆるいのかもしれない。
でも、それでいい。
そのほうが、生きやすい。
「……まだ、学校に行かないといけない日があります」
かすれた声で、俺は言う。
アガヅマは一瞬だけ考える素振りを見せてから、短く答えた。
「その日は解放しよう」
その言葉が落ちた瞬間、肩の奥に乗っていた重みが、すっと消えた。
呼吸が、少しだけ深くなる。
――解放。
休み、ではない。
その響きだけが、わずかに引っかかる。
けれど、もう問い返す気にはならなかった。
俺は、それごと受け入れることにした。
「……じゃあ、親に連絡します」
スマホを開く。
その瞬間、新着メールが一件、浮かび上がった。
――親からだ。
胸の奥が、わずかにざわつく。
開く。
「就職おめでとう。良さそうな会社じゃない。上司の方からも丁寧なお手紙と、贈り物が届いて。お礼を言っといて」
短い文面。
それだけで、十分すぎた。
「……あの、手紙が来たって」
俺は顔を上げる。
アガヅマは、何でもないことのように答えた。
「あぁ、手紙とカステラを贈っておいた」
淡々と。
「ちなみにカステラはこれと同じ老舗のもので、一万円くらいのを選んでおいたから」
女が、すっと皿と湯のみを差し出してくる。
気づけば、俺はそれを受け取っていた。
頭が、少しぼんやりしている。
言われるままに、お茶を口に含み、カステラを一口。
ふわり、と甘さが広がる。
しっとりとした生地が、舌の上でほどける。
――うまい。
驚くほど、うまい。
気づけば、次の一口をかじっていた。
「……めちゃくちゃ美味いです」
思わず、素直な感想が漏れる。
アガヅマは何も言わない。
女だけが、くすりと笑った。
「このカステラね、うちの会社の社員の実家のお店なんだよぉ」
女は気軽な調子で言いながら、もう一切れを口に運ぶ。
甘い香りが、また少しだけ広がる。
「うちで使う備品や贈答品は、できるだけ社員の実家に関係するものを使うようにしている」
アガヅマが続ける。
「君の実家のそば屋にも、支店から注文を出すようにしておいた」
その一言で、時間が止まる。
……そば屋。
頭の中に、古い木の看板と、油で少し黒ずんだ暖簾が浮かぶ。父親が黙々と麺を打ち、母親が湯気の向こうで忙しなく動いている光景。
あの店に。
地獄が、注文を出す?
現実感が、ゆっくりと歪んでいく。
けれど――
悪い話じゃない、と思ってしまった。
むしろ、助かる。
売上も上がるかもしれない。
そんな考えが、自然に浮かぶ自分がいる。
「……そう、なんですね」
口に出した声は、思ったよりも静かだった。
カステラの甘さが、まだ舌に残っている。
「あの……親には、地獄3.0って会社名で手紙を出したんですか?」
俺が聞くと、アガヅマは何も言わず、女に顎で合図した。
女はすっと名刺を差し出す。
視線を落とす。
――見覚えのある企業名。
テレビでも、ネットでも、何度も目にしたことがある。誰もが知っている、あの会社だ。
「……これって、有名な企業ですよね」
思わず確認する。
「あぁ。そこはうちのペーパーカンパニーだ」
一切のためらいもなく、アガヅマは言った。
言葉が、静かに沈む。
現実が、ひとつずつズレていく。
――ペーパーカンパニー。
じゃあ、親に届いた手紙も。カステラも。
全部、ここが裏で繋がっている。
俺は、ゆっくりと息を吐く。
とんでもない会社に入ったのかもしれない。
そう思った。
そして同時に――
もう、戻れない場所に来てしまった気がした。
「じゃあ……表面上は、この企業の社員という形ですか?」
言いながら、自分の声が少しだけ遠く感じる。
現実に足をかけようとしているのに、どこか宙に浮いたままだ。
アガヅマは、何も言わない。
ただ、一度だけ、ゆっくりとうなずいた。
それだけで十分だった。
胸の奥に、静かに何かが沈む。
――表では、普通の会社員。
裏では、地獄。
二重に重なった世界が、音もなく形を持つ。
逃げ道は、もう見えない。
けれど不思議と、さっきまで感じていた恐怖は、少しだけ薄れていた。
代わりに、得体の知れない現実感が、じわじわと広がっていく。
俺はただ、それを受け入れるしかなかった。




