地獄とは元来脅迫だ。
すう、と低い溜息が、部屋のどこかから漏れた。
「たしかにA社はホワイト企業だ。だがしかし……この男を見たまえ」
アガヅマが顎で示す。
画面が切り替わる。
そこに映っていたのは、面接のときのあの男だった。整ったスーツに、崩れた笑み。口元が不自然に歪み、ニヤニヤと笑っている。
「……この人は、面接をしてくれた人です」
自分でも分かるほど、声がかすれる。
「こいつがお前をこうした」
短く、断ち切るような言葉。
映像の中で、俺はまだ書き続けている。紙が何枚も重なり、机の端からこぼれ落ちていく。
胸の奥がざわつく。
「どうしたら、避けれるんですか?」
気づけば、まっすぐにアガヅマを見ていた。
アガヅマの視線が、わずかに細くなる。
「人の運命を、都合のいい形に変えることに手は貸せない」
冷たい声音。
部屋の温度が、さらに一段下がった気がした。
画面の中の俺が、ふと顔を上げる。
その目は、こちらを見ているようで――
すぐにまた、紙へとむかった。
「でも……まだ三社ある」
かすれた声で、俺は言った。届かないと分かっている言葉を、それでも吐き出す。
女は何も答えない。
ただ、次のテープを差し込み、再生する。
映像が切り替わるたびに、別の俺が現れる。別の会社。別の制服。別の場所。
だが、結末だけは同じだった。
崩れた顔。擦り減った声。何かを失った目。
気がつけば、どれくらい時間が経ったのか分からない。
三時間――それくらいは、過ぎていたのかもしれない。
思考が鈍くなる。
胸の中で、何かが音もなく折れた。
「……こんなの、脅迫じゃないですか」
言葉が、床に落ちるみたいに力なくこぼれる。
「地獄とは、元来脅迫だ」
アガヅマは、感情のない声で言った。
逃げ道は、最初からなかったみたいに。
俺は、何も理解しないまま――ただ、それを飲み込む。
喉の奥で、何かが沈んでいく。
「……わかりました。やります」
自分の声なのに、どこか遠い。
アガヅマは一度だけ頷き、机の上から一枚の書類を滑らせてきた。
「そうか。これが雇用の条件だ」
白い紙が、俺の前で止まる。
基本給――普通。
ボーナス――実績次第で増額。
悪くない。
むしろ、いい。
「……悪くないですね」
口に出すと、現実味が少しだけ増した。
「当たり前だ。普通にしていても公務員レベル。実績があれば外資系コンサル並みだ」
アガヅマは淡々と言いながら、机の上の見えないホコリを指先で払う。
「しかも絶対に潰れない。政府機関より安定してるわぁ」
女がくすりと笑う。その声だけが、やけに柔らかい。
さっきまでの抵抗が、どこか遠くに押し流されていく。
――何を、そんなに拒んでいたんだ。
最悪の未来だと思わされていたはずなのに、目の前にあるのは、むしろ逆だ。
「あの……俺、なんで採用されたんですか?」
ふと浮かんだ疑問を、そのまま投げる。
女は少しだけ首を傾けて、楽しそうに目を細めた。
「いくつか条件があるけどぉ。運が良かったのね」
軽い口調。
その隣で、アガヅマが続ける。
「もうこちら側の人間だ。教えてやろう」
一拍。
「前任者の名前の最後の文字が“コ”で終わったので、コダマヒトシ。お前が選ばれた」
感情のない声。
意味が、すぐには頭に入ってこない。
「えっ、それだけですか?」
思わず声が裏返る。
「もちろん。“ん”で終わる者は選ばれないわょ」
女は軽くウインクする。
……しりとりかよ。
頭の中で単語がぐるぐる回る。“ん”で終わる名前なんて、いるか?と考えた瞬間、いくつか浮かんでは消える。
「じゃあ……マケインさんとかは、選ばれないんですか?」
自分でも妙な例えだと思いながら口に出す。
アガヅマが、わずかに口角を上げた。
「ふっ、君はバカだな。McCainだ。英語圏では“n”で終わっても続く。これは日本支部だけのローカルルールだ」
淡々とした説明。
その一言で、視界が少し広がる。
――日本支部。
「えっ……海外にも、支店があるんですか?」
言いながら、自分でおかしくなる。
「もちろんよ。全世界にあるわ。私たち、グローバル企業だし。発展途上国にも、数千年前から支部があるわぁ」
またウインク。
その仕草が、場違いなくらい軽い。
数千年前、という言葉が、やけに重く沈む。
なんだ、それ。
「……地獄だからですか……」
思わず漏れた呟き。
誰に向けたわけでもないのに、しっかりと部屋に響いた。
男の目が、わずかに光を帯びる。
「そう。ようやく気が付いたかね、コダマヒトシ」
名前を呼ばれた瞬間、背筋に細いものが走る。
「……俺が選ばれた理由って、しりとりだけなんですか?」
問い返すと、ほんの一瞬だけ、女の表情が曇った。
すぐに消えたけれど、その変化は確かに見えた。
「そのまま人生を送ると、将来不幸になる者が対象になる」
アガヅマは、感情を挟まずに言う。
言葉だけが、静かに落ちてくる。
「……優しいんですね」
気づけば、そう口にしていた。
男は、わずかに首を振る。
「優しくはない。地獄の囚人を増やしたくないだけだ」
その声音は変わらないのに、さっきまでよりも少しだけ柔らかく聞こえた。
理由は分からない。
けれど、確かに違った。
「……ほかにも、あったりします?」
俺は続ける。
女が、くすりと笑う。
「そうね。脳がゆるいのと、あとはガチャね」
軽く、指先で弾くような言い方。
――脳がゆるい。
――ガチャ。
言葉の意味が、うまく噛み合わないまま、頭の中で転がる。
どこかで、何かが決定されていたみたいに。
「脳がゆるいというのは、適応性が高いという事だ」
アガヅマが、事務的に言い添える。
適応性。
その言葉が、胸の奥で小さく引っかかる。悪くない響きだ。むしろ、少しだけ誇らしい。
「……俺は、特別に選ばれた人なんだ」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
間が空く。
「ぷふふ」
女が、肩を震わせて笑いをこらえる。
その音が、妙に現実的で、嫌に軽い。
「お前はただのサラリーマンだし、一般人だ」
アガヅマの声が、真っ直ぐにくる。
「就職した先が、地獄なだけだ。勘違いするな」
その一言で、さっきまでの浮ついた感覚が、すっと剥がれた。
特別でも何でもない。
ただ、行き先が――少し、違うだけ。
そう思うと、部屋の空気が、少し冷たく感じた。




