そこにある地獄
男は、わずかに首を傾けた。
「しかし、なぜ捨てた」
低く、抑揚のない声。
捨てた?
何の話だ。
「何のことですか?」
俺が問い返すと、男は一拍だけ沈黙した。その視線が、机の上に落ちる。
つられて見ると、そこには――さっきの封筒が、きれいな形のまま置かれていた。
「うちからの採用通知だ。さっき捨てただろう」
低い声が、机越しに突き刺さる。メガネの奥の視線は、冷たく細い。
――やっぱり、あの“地獄3.0”か。
「あの、地獄3.0ってところですか?」
「そうだ。なぜ捨てた!」
乾いた音が弾けた。男の手のひらが机を叩く。反射的に、肩がすくむ。
怖い。
「ちょっと怖いですよ。知らない所だし、住所も連絡先もないから、イタズラかと」
言い訳みたいに言葉を並べる。喉がわずかに詰まる。
男は、じっと俺を見据えたまま動かない。やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……ちょっと待て。お前、地獄を知らないのか?」
視線が、さらに細くなる。奥歯を噛むような気配。
「いえ。地獄は知ってますけど……というか、地獄?」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなる。
「そうだ。地獄だよ」
即答だった。
空気が、ひとつ重くなる。
エアコンの音はしないのに、やけに静かだ。逃げ場のない沈黙が、じわじわと肌に張りついてくる。
男の指先が、机の上を一定のリズムで叩き始めた。
苛立ちが、そのまま音になっている。
「まぁいい。明日から働いてもらう」
男は書類を一瞥して、あっさりと告げた。
空気が固まる。
「ちょっと待ってください。俺は働くなんて言ってませんよ」
反射的に言葉が出る。けれど、その先が続かない。
男の視線が、鋭く跳ね上がった。
ギラ、と。
喉の奥がひゅっと縮む。
「こんなの……訴えてやる」
絞り出した声は、自分でも情けないほど頼りない。震えが混じって、うまく形にならない。
「地獄を訴える? どこにだ。誰にだ?」
男は淡々と言う。その静けさが、逆に重い。
「だ、だから……地獄3.0って会社でしょ。労働基準法とか、そういうやつ……」
知識をかき集めて並べる。正しいのかどうか、自分でも分からない。
「地獄に労働局が対抗できると思うのか?」
低い声が、部屋の壁に反響する。
逃げ場がない。
「……採用されたところが、あるんです」
俺は、ようやくそれだけを言った。
一瞬、沈黙が落ちる。
男の指が止まる。
その沈黙が、さっきまでよりも深く、重く、俺の胸に沈んだ。
男は無言で受話器を取り、どこかに電話をかけた。
「すまないが、コダマヒトシの資料映像を持ってきてくれ」
短く、それだけを告げて切る。
静寂が落ちた。
三分――いや、もっと長く感じた。時計は見えないのに、時間だけがやけに重く流れる。
(こんこんこん)
不意に、扉を叩く軽い音。
「……入れ」
男が低く言う。
(がしゃ)
ドアが開く。
「アガヅマさぁん。持ってきましたよぉ」
柔らかい女の声が、場違いなくらい軽やかに響く。
思わず視線がそちらへ引き寄せられる。
ゆるく波打つ茶色のロングヘア。白い肌が、室内の無機質な光を反射している。黒のジャケットとミニスカート、細い脚を際立たせるハイヒール。胸元の開いた白いシャツが、やけに現実感を持ってそこにあった。
この男――アガヅマっていうのか。
女は俺には目もくれず、慣れた手つきで黒いケースを差し出す。中から覗くのは、古びたビデオテープのようなものだった。
「ご苦労」
アガヅマはそれを受け取り、指先だけで軽く扉の方を示す。
「もぉう。ちょっとくらい遊んでいってもいいじゃないですぅか」
女は唇を尖らせるが、表情は崩れない。怒っているというより、ただそういう仕草をしているだけみたいだ。
ふわりと、甘い香りが漂う。さっきまでの無機質な空気に、わずかな温度が混ざった気がした。
「この子が新人のコダマヒトシ君かぁ。かわぃいね」
距離を詰めるでもなく、ただ視線だけでなぞるように見られる。
――なんだこの人。
思考が一瞬止まる。整いすぎた顔立ちと、大きな胸。
現実離れした雰囲気に、言葉が追いつかない。
「コダマスイカ……」
気づいたら、口からこぼれていた。
「ぷふ……」
短く、アガヅマが吹き出す。
その音に、俺は反射的にそちらを見る。あの男が笑うのか、と一瞬だけ現実がずれる。
慌てて女の方へ視線を戻す。
……何も気にしていない。
表情はそのまま、ただ面白そうに目を細めているだけだった。
よかった、と胸の奥で小さく息をつく。
「じゃあ再生するねっ」
軽い調子で、女はアガヅマの手からテープをひったくるように取り上げた。
古びたビデオデッキのような装置に差し込む。
機械音が低く唸り、やがて――
ノイズの向こうに映っているのは――俺だった。
だが、何かが違う。
目の奥が死んでいる。頬はこけ、肩は落ち、背中が妙に丸い。別人みたいに、疲れ切っている。
視線が自然と胸元へ落ちる。
そこには、A社の社章。
薄暗い倉庫のような場所。蛍光灯が不規則に明滅している。机に向かって、俺はただひたすら何かを書き続けていた。
紙だ。
コピー用紙の上に、びっしりと文字が並んでいる。
――反省文。
「私の失態で、会社に多大な迷惑をおかけしました」
「これも私が無能なせいです」
同じような文言が、隅から隅まで埋め尽くされている。インクの濃淡が、執拗な繰り返しを物語っていた。
何だ、これ。
喉が乾く。
「これは一体……」
言葉が、自然と漏れる。
すぐ横で、気配が近づく。
女が、俺の顔のすぐそばまで寄っていた。息がかかる距離。
「これはね。A社に入った君が、三年後に経験する事だよ」
囁くような声。最後に、にこりと笑う。
背筋が冷える。
「ちょっと待ってください。A社はホワイト企業だし、こんな事はあり得ません」
即座に否定する。しないと、何かが崩れそうだった。
画面の中の俺は、ペンを止めない。
ただ、ひたすらに、自分を責め続けている。




