就職活動
路地裏で猫がニャ~と鳴いた。
END
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最後の一行を読み終えた瞬間、俺はページを閉じた。
指先に、まだ物語の余熱が残っている。三か月。通学の合間や、寝る前の数分を削って追い続けた世界が、あっけなく幕を引いた。
……これが、オチか。
部屋は静まり返っている。エアコンの低い唸りだけが、やけに現実を強調してくる。胸の奥に、消化しきれない何かが引っかかっていた。
異世界に逃げ込むようにページをめくっていたくせに、その結末に納得できない自分がいる。
「俺なら――」
思わず呟いて、続きを考えてみる。もっと筋の通った終わり方。もっと救いのあるラスト。けれど、どの案も途中で霧散した。形にならないまま、思考だけが空回りする。
……簡単じゃない、か。
視線を横に滑らせると、デジタル時計が青白く「22:03」を浮かべていた。急に、腹の奥がきゅっと鳴る。
現実に引き戻されたみたいに、俺は立ち上がる。
外に出よう。コンビニでポテチとテーブルロールを買って、ポテチパンでも作ってやる。
そう決めた瞬間、さっきまでの物語は、ゆっくりと背後に沈んでいった。
ポテチパンを初めて知ったのは、どこかの小説だった。
袋を開けて、ポテチを挟むだけ。安くて、妙にうまい。気づけば、俺の中でちょっとしたブームになっていた。こういう夜には、ちょうどいい。
アパートの外に出ると、すぐ脇の公園から光が弾けた。遅れて、乾いた破裂音。ヤンキー連中が、季節外れの花火をやっている。
風に乗って、火薬の匂いが流れてくる。鼻の奥に引っかかる、あの独特の焦げた甘さ。
……懐かしいな。
足を止めるでもなく、視線だけそっちに流す。最後に嗅いだのはいつだったか、思い出せないくらい昔の話だ。
笑い声が重なる。じゃれ合う影の中で、一番小柄なやつがこっちを振り向いた。
「見てんじゃねぇぞ。この一般人が」
短く、鋭く刺さる声。
一般人――そう言われて、変に意識してしまう自分がいる。否定する理由もないのに、どこかくすぐったい。
俺は視線を外した。
アスファルトに落ちた光の残像を踏み越えて、足を速める。コンビニの白い灯りが、まっすぐ先で待っていた。
あいつらも、結局は一般人なんじゃないか。
火花の残像を横目に、そんな考えがふっと浮かぶ。特別な何かになったつもりで、ただ騒いでいるだけじゃないのか――そう思った瞬間、自分にも同じ輪郭が重なった。
俺は、自分を特別だと思ったことがない。
もし「平凡」に偏差値があるなら、かなり上位に食い込める自信はある。目立たず、外れず、きれいに平均へ収まる感覚。それが、妙にしっくりきていた。
足を進めながら、ポケットの中のスマホに意識が向く。
就職活動。十社受けて、不採用が六。採用が四。
数字だけ見れば、悪くない。むしろ、出来すぎなくらいだ。
良い企業に就職して、節約して奨学金を早期返済する。
そしてインデックスファンドに投資して、定年までに利息だけで生活できるようにする。
それが八歳からの俺の夢だ。
あとは――選んで、連絡するだけ。
コンビニの白い光が、目の前でにじむ。自動ドアの向こうに、次の現実が静かに待っていた。
ポテチとテーブルロールを抱えて、俺はアパートへ戻った。
錆びた郵便ポストに手を伸ばしたとき、白い封筒が一枚、引っかかったように収まっているのに気づく。表には、無機質な赤いハンコ。
『採用通知』
足が止まった。
差出人の欄をなぞる。
――地獄3.0。
聞いたことがない名前だ。
ポケットからスマホを取り出し、面接を受けた会社のリストをスクロールする。見覚えのある社名が並ぶ中に、その文字列はどこにもなかった。
沈黙が、少しだけ重くなる。
部屋に戻り、電気もつけ、やかんに残っていた出がらしの茶葉で紅茶を淹れる。色は、ほとんど水に近い。
奈良の修学旅行で買ったマグカップ。大仏の顔が、ぼんやりと浮かんでいる。内側には、茶渋が年輪みたいに重なっていた。
漂白しろよ、と笑いながら渡された漂白剤のことを思い出す。結局、そのままだ。
……今度、やるか。
独り言のように呟いて、ポテチの袋を開ける。軽い音が、やけに大きく響いた。
テーブルロールに指で切れ込みを入れる。柔らかい生地が、鈍く裂ける。
そこに、ポテチを二枚、差し込む。
パリ、と小さく砕ける音。
よだれがじわりと込み上げる。
俺は紅茶を一口だけ流し込み、そのままポテチパンにかぶりついた。パリッとしたポテチの塩気と油が、パンの甘みと混ざりあい舌にまとわりつく。
……うまい。
空腹だったせいか、手は止まらなかった。気づけば、五分も経たないうちに全部なくなっていた。
指先の油を軽く拭って、机の上の封筒に手を伸ばす。
紙の感触が、やけに乾いている。
ハサミで縁をなぞるように切り裂き、中身を引き出す。入っていたのは、どこにでもありそうな採用通知だった。
ただひとつ、違和感がある。
住所も、電話番号も、どこにも書かれていない。
俺は眉をひそめてスマホを開いた。会社名を打ち込む。検索結果は、見慣れない単語の羅列ばかりで、それらしいものはひとつも出てこない。
SNS。動画サイト。思いつく限りをなぞっても、同じだった。
……空っぽだ。
現実に存在していないみたいに。
しばらく画面を見つめたあと、俺は小さく息を吐いた。
イタズラ、だろ。
そう結論づけて、紙を軽く丸める。ゴミ箱に放ると、乾いた音を立てて底に当たった。
それで終わりのはずだった。
歯を磨こうと立ち上がった、その瞬間だった。
背後で、わずかに光が弾けた。
振り返ると、ゴミ箱の中が淡く発光している。白とも青ともつかない、不気味に澄んだ光。
なんだ、これ。
一歩、近づいた――そこで、視界が途切れた。
……
気づいたとき、俺は椅子に座っていた。
硬い背もたれ。冷たい空気。正面には机がひとつ、その向こう側に男がいる。
メガネをかけた、無表情な男。無駄のないスーツに身を包み、まっすぐこちらを見ていた。
ここは――面接室、みたいだ。
「……あの、ここは?」
声が少しだけ乾いている。
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