地獄の履歴
俺は、自分の考えに少しだけ恐怖を覚えた。
足元が、わずかに揺れている気がする。
これまで俺は、裁く側の言葉に頷いていた。
悪人には極刑をーーその一文に、何の疑いも持たずに。
画面越しに「いいね」を押し、
反対する声には、軽く笑って切り捨てていた。
その裏側にある重さなんて、想像もしなかった。
今、立場が変わる。
刑を執行する側。
その位置に立った瞬間、世界の色が変わる。
赤い水面。沈める手。
繰り返される動作。終わらない時間。
それを、自分がやるのか。
誰かにやらせるのか。
どちらも、同じ重さで胸に残る。
正義だと思っていたものが、
静かに軋み始める。
俺の中で、何かがずれていく音がした。
その時、ひとつの考えが浮かんだ。
冷たい光のように、頭の奥に差し込む。
ーーコンピューターの自動制御はどうだ。
人の手を介さず、感情もなく、ただ処理するだけの存在。
それなら、この歪みから逃れられるのではないか。
「あの……、コンピューターの自動制御は」
言い終わる前から、空気が変わった。
温度が、すっと下がる。
誰も動かない。
ただ、静寂だけが重く広がる。
ーーしまった。
愚問だったのか。
そんな考えが、遅れてよぎる。
「――その事は、何度か議論された」
アガヅマの声が、ゆっくりと返ってくる。
「ただ、いくつかの条件的にムリがあった」
短い言葉。
だが、それ以上踏み込ませない壁のようだった。
俺は唾を飲み込む。
喉が、少し痛い。
風邪気味なのか、それともーー
この場の空気のせいなのか。
「まずコンピューターが出来た時期には、すでに地獄は功徳ポイント制に移行していた」
アガヅマの声は静かだった。
俺は黙って頷いた。
「そして自動制御にするなら、世界の問題を解決するのに、亡者を使えないから、地獄側に功徳ポイントを渡せなくなる。そう通達された。この意味がわかるかね」
言葉が、逃げ道を塞ぐように並ぶ。
「功徳ポイントを使っての、被害者への救済は不可能になる」
口にした瞬間、自分で理解してしまった。
言葉が、胸の奥で重く沈む。
「君は復讐だけあって救済がない世界と、復讐と救済のバランスが取れた世界とどちらが良い?」
選択肢は、最初から用意されていたみたいだった。
「バランスです……」
声が細くなる。
まるで、蜘蛛の巣に絡め取られた羽虫みたいに、動けない。
沈黙が容赦なく、俺の心に浸食する。
自動化すれば誰も傷つかないと思ったのに、それは救済を切り捨てる案だった。
その事実は、
自らの価値観を激しく揺さぶった。
「そろそろ食事にしませんか?」
女の声が、ふっと空気を緩めた。
「そうだな。こっちに来い」
アガヅマが背を向ける。
俺は一度だけ教官の方を見る。
何も言わないまま、軽く頭を下げた。
そして、足を動かす。
廊下は長く、どこまでも続いているように見えた。
足音だけが、やけに響く。
俺たちは、そのまま別室へと向かった。
「教官とか、亡者は食事をとらないのですか?」
歩きながら、なんとなく口にした。
深い意味はない。ただ、気になっただけだ。
「一日一回朝に、天界から配給される桃を食べる」
アガヅマは振り返りもせずに答える。
足音が、一定のリズムで続く。
「桃だけですか?」
思わず聞き返す。
「彼らは霊体だよ。普通にご飯は食べられないのぉ」
女が柔らかく言う。
その声だけが、少し温度を持っていた。
ーーそうか。
教官も、亡者も、同じ“霊体”。
どこかで線を引いていた自分に気づく。
「教官は五年経ったら、どうなるのですか?」
問いが、自然と続く。
「五年経ったら転生する。たんまりと功徳ポイントのボーナス付きでな」
アガヅマの声は淡々としていたが、そこには少しの軽さがあった。
少しだけ、胸が軽くなる。
終わりがある。それだけで、救いに見えた。
ーー鬼という立場で……。
ふと、違和感が浮かぶ。
「……あの地獄の鬼って、人間だったのですか?」
自分でも、遅い気づきだと思う。
「もちろん、地獄の鬼は人間だよ。日本だけじゃない。世界中の地獄の鬼は人間だ」
アガヅマの言葉が、静かに突き刺さる。
足が、一瞬だけ重くなった。
鬼は、どこか別の存在じゃない。
ただのーー人間だ。
ちょっと待て。
胸の奥で、何かが引っかかった。
ーーまさか、海外にも。
「あのもしかして、海外にも支店があるのですか?」
声に出した瞬間、自分の中の常識が崩れていく。
「もちろん、我らと同じように活動しているよ」
アガヅマは、当たり前のことのように言った。
世界中にーー地獄。
その事実が、じわりと広がる。
やがて、扉が開く。
「食堂」と書かれた部屋。
中に入った瞬間、視界が一変した。
ずらりと並ぶ黒い影。
全員、ブラックスーツに鬼の面。
だがーー違う。
鬼の面は、下半分が開いている。
口元だけが、人間のまま露出している。
ざわざわと、低い食事の音。
どこか機械的で、整いすぎた空間。
「驚いたぁ? この部屋に入ると、みんな半面になるのよ」
女の声が、少し楽しげに響く。
視線を向けると、彼女の口元も、アガヅマの口元も見えている。
仮面の奥にあった“人間”が、急に現実味を帯びる。
俺は思わず口にした。
「部屋に入るときくらい、マスクを外してもいいのでは?」
その言葉が、静かな食堂に、わずかに波紋を広げた。
俺の言葉を拾ったのか。
くすくすと、抑えた笑いが広がる。
視線が、わずかに集まる。
「気にするな。ここにいる連中も一度は同じ質問をした」
アガヅマが少しだけ声を張る。
その一言で、笑いはぴたりと止まった。
ーー助けてくれたのか。
俺は小さく会釈する。
「テーブルに着こう」
アガヅマが歩き出す。
俺もその後を追う。
席に着きながら、周囲を見渡す。
注文はどうするんだーーそう思った瞬間。
すっと、目の前にメニューが置かれた。
誰が運んだのか、見えなかった。
「あの……」
言いかけたところで、女が手を軽く上げる。
言葉を制する仕草。
「ここはね。毎日日替わりメニューなの」
柔らかい声。
「飲食店をしている社員の実家に注文するの。アレルギーに関する情報もすべて把握してるから、大丈夫よ」
俺の視線を受けて、少し笑う。




