閻魔大王
「あなたの実家のおそば屋さんは、別の支店の社員たちが食べてるわ」
一瞬、現実と地続きになる。
妙な安心感が、胸に落ちた。
「栄養価もある程度調整するように設定してあるから、なにも気にしなくて良い」
アガヅマはもう食べ始めている。
迷いのない手つき。
俺は箸を持ちながら、少しだけ躊躇する。
この場所にも、日常の形がある。
ただ、それがどこかーー歪んでいるだけで。
俺も箸を動かす。
ひと口。ーー普通に、美味い。
この場所の空気と、味覚が噛み合わない。
それが、妙に現実味を帯びていた。
「あの……、採用されたが、すぐに終わった地獄とかってあります?」
少し気が緩んだのか、軽く問いを投げる。
女は一瞬だけ考え、視線を宙に泳がせた。
「パワハラ、ブラック企業が問題になった時ね」
ゆっくりと語り出す。
「理不尽な取引先、パワハラ上司だった者が行く。永遠残業コースっていうのが、新設されたの」
思わず箸が止まる。
ーーなにそれ、気になる。
「どうなったんですか?」
女は肩をすくめる。
「鬼役はパワハラを受けた元社員などが担当する事にしたのよ。転生前のオプションとしてね」
なるほど、と頷きかける。
「人気ありそうですね」
「そうなのよ。人気はあったの」
だが、そのあとに続く言葉が少し沈む。
「ただね。鬼役の子が経験者だから、理不尽な仕様変更とか許せなくって。調整しちゃうのよ」
調整。
その言葉が、妙に引っかかる。
「だから、すぐに仕事が終わってしまうの」
俺は思わず口にする。
「その元社員が優秀だったって事ですか」
女は小さく笑う。
「そう。優秀な子って、理不尽な仕様変更が起きないように、全部整えてしまうの」
一瞬、沈黙。
「だからね。そもそも無理だって事になったのよ」
皿の上の料理は、変わらず美味いまま。
なのに、その話だけが、妙に苦く残った。
「つまり、理不尽な要求や、パワハラをするのも、ある種の才能がいるという事だ。もっとも、それを世間は才能とは呼ばないがね」
アガヅマは、わずかに笑みを浮かべた。
冗談めいたその表情が、逆に現実味を帯びる。
ーーこの人も、こういう顔をするのか。
その事が、妙に印象に残った。
(ぴんぽんぱんぽーん)
場違いなほど明るい音が、食堂に響く。
同時に、壁のモニターが一斉に点灯した。
ざわめきが消える。
その場にいた全員が、ぴたりと立ち上がる。
さっきまでの空気が、嘘みたいに引き締まる。
視線が、同じ方向へ揃う。
モニターの中に、鬼の面を被った男が現れる。
一瞬の間。
「閻魔大王様にご挨拶申し上げます」
アガヅマが、すっと姿勢を変える。
手を前に揃え、指を隠し、膝を折る。
その動きは、訓練されたものだった。
「閻魔大王様にご挨拶申し上げます」
周囲の全員が、同じ動作をなぞる。
音もなく、揃っていく。
俺は一瞬遅れる。
心臓が、どくんと跳ねる。
--やばい。
慌てて、見よう見まねで同じ姿勢を取る。
手の位置、指の隠し方、膝の角度。
完璧かどうかなんて、考えている余裕はない。
ただ、空気に合わせる。
その中で、モニターの向こうの存在だけが、やけに大きく感じられた。
「諸君達、ご苦労。先ほど地獄二六区画で蜘蛛の糸案件が発動した。これから我らは、無期限でストを実施する。君たちも続くように、以上だ」
モニターが暗転する。
音が、消える。
一拍遅れて、食堂にざわめきが戻る。
抑えきれない動揺が、波のように広がる。
「蜘蛛の糸案件ってなんだ」
「スト……?」
「どういう事だ……」
低い声が、あちこちでぶつかり合う。
「静粛に」
アガヅマの一声で、空気が締まる。
全員の視線が、一点に集まる。
「君たちも聞いての通り、蜘蛛の糸案件が発動した。これから私たちは大王様に従い、無期限でストを実施する」
その言葉は、揺らがない。
「あの、獄長殿。蜘蛛の糸案件とはなにですか?」
誰かが手を挙げる。
「蜘蛛の糸案件は、天界からの横やりで、亡者を天界に導く行為だ」
淡々とした説明。
だが、その内容は、重く沈む。
ーー獄長。
ーー天界からの横やり。
ーー亡者を天界に導く。
知らない単語が、頭の中でぶつかる。
世界の理解が、また一段、ずれる。
「あの……ストとは何をするのですか?」
気づけば、俺は口を開いていた。
自分でも少しおかしな問いだと思う。
何もしないことーーそれがストのはずだ。
それなのに、“何をするのか”を聞いている。
それだけ、この場所の“何もしない”が、普通ではない気がした。
「ここにいる皆は、仕事をしないだけだ。ただ緊急事態に対応するために、出社はしてもらう」
アガヅマの声が、食堂の隅々まで行き渡る。
ざわめきの中に、一本芯が通る。
「あの……、出社してれば、遊んでても良いのですか?」
遠くから、恐る恐る声が上がる。
「あぁ、遊んでても良い。旧地獄施設に見学に行ってもいいし、旧地獄体験をしても良い」
その一言で、空気が一瞬だけ軽くなる。
だがすぐに、別のざわめきが広がる。
興味と不安が混ざった、落ち着かない波。
「ただ、それらの施設の管理者もストに入るから、遊ぶ際は同僚同士で行き、事故が起きないように配慮しろ」
アガヅマの声は変わらない。
淡々と、現実を重ねていく。
「あと針山地獄は、針が老朽化の為に錆びついており、刺さると破傷風にかかるから、あそこは立ち入り禁止だ」
その言葉に、場の温度がわずかに下がる。
ーー破傷風。
地獄なのに、妙に現実的な単語。
俺は周囲を見渡す。
誰もが、どこか戸惑った顔をしている。
仕事をしない。
だが、ここにいる。
遊んでいい。
だが、危険はある。
境界が、曖昧になる。
ーーこれが、地獄のストライキ。
その言葉だけが、やけに重く残った。
俺たちは食事を終え、席を立つ。
食堂のざわめきが、背中の向こうに遠ざかっていく。
「これからどうするのですか?」
廊下に出て、俺は尋ねた。
「そうだな。ストに入ったことだし、地獄観光でもしようか。どこが良い?」
アガヅマが、軽く女の方を見る。
「とりあえず、地獄横丁でも行く? あそこの店は獄営じゃなくって、個人経営の店ばかりだから使えるわよ」
女の声は、どこか弾んでいた。
ーー地獄横丁。
妙に現実的な響きに、少し戸惑う。
「あの、俺、持ち合わせがないです」
思わず口にする。
「ここではどっちみち現金は使えないの。ここでは、獄円という通貨しか使えないのよ」
あっさりと返される。
「獄円は、給料とは別に、毎日いくらか支給される。研修中とはいえ、お前にも少し入っていると思う。おでこの部分を触ってみろ」
言われるままに、額に触れる。
ーーその瞬間。
視界の前に、数字が浮かび上がる。
五百。
まるで、現実に重ねられた表示みたいに。
「五百と出ました」
自分の声が、少しだけ遠く感じる。
「じゃあ五百獄円は使える。まぁ今日は俺がおごるから、心配するな」
アガヅマが、軽く笑う。
その何気ない一言が、妙に人間らしくて。
少しだけ、緊張がほどけた。
女は、じっとアガヅマを見つめていた。
無言の圧力のような視線。
一拍。
「だいじょうぶだ。君にもおごるから」
アガヅマが軽く言う。
その瞬間、女の表情がぱっと緩む。
ぐっと拳を握り、肩を引くーーガッツポーズ。
思わず目が止まる。
ーーひさしぶりだ。
こんな仕草を見るのは。
こんな場所で。
黒いスーツと鬼の面の下で、
そんな単純な喜び方が残っていることに、少し驚く。
俺は、わずかに息を吐いた。
この世界にも、まだ人間の癖は消えていないらしい。
俺らは本通りを渡り、
地獄横丁に入る。
路地裏で猫がニャ~と鳴いた。
END
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この作品は完結していますが、
反響があれば続編を書く可能性があります。
ブックマークしておくと、もし更新された場合に追いやすくなります。
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