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『王妃に華が必要』と婚約破棄されたので、辺境都市を立て直したら王都より栄えてしまいました  作者: はねださら


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最終章 第4話 これは、命令では、ない

 王都からの二通目の書状は、ガイウス宛だった。


 中身は栄転の打診だった。方式の採用に伴い、王都に新しい部署が置かれる。地方行政の調整室。その次官の席。リュネアを実地で動かしてきた代官ほど、適した者はいない――そういう理屈だった。理屈はまた正しかった。最近、正しい理屈ばかりが次々に届く。


 ガイウスは読み終えて、書状を卓に伏せた。


「あとで、返事を書く」


 それだけ言った。エリアナは何も言わなかった。行くべきです、とも。残って、とも。言えば、彼の選択に彼女の重みが乗る。


 言わないことは、もう癖になっていた。


 ガロの報告書は、その週のうちに編纂室の机に載った。


 エリアナが通りかかったのは偶然だった。記録棚に忘れ物を取りに戻った帰りだ。開いた戸口から、オズワルドの机が見えた。


 彼は条文を書いてはいなかった。


 ぼろぼろの帳面の写本を読んでいた。同盟の使者がグレイシャから持ち帰った、あのしくじり帳だ。何度も読んだのだろう。頁の端が、もう柔らかくなっていた。その隣にガロの報告書。条文の束とは、別の山に。


「……フォルツ殿か」


 気配に気づいて、彼は顔を上げた。取り繕いもしなかった。疲れが、取り繕う力ごと削っていたのかもしれない。


「お邪魔でなければ」


「どうぞ。茶は出ませんが」


 しばらくどちらも黙っていた。夜の編纂室には、紙の匂いがしていた。記録棚と同じ匂い。


「妙な帳面です」


 オズワルドが写本を指で叩いた。


「規範の体をなしていない。誤字もある。責任の所在も曖昧だ。なのに、詰所の若い者はこれを読む。私の条文より先に。……そして、この報告書だ。私の書いた条文は正確です。公平です。どこも間違えて書いていない。なのに、この条文に従えば、人が流されていた」


 彼は机の抽斗を開けた。古い一枚の紙を出す。折り目が擦り切れるほど、畳まれてきた紙だった。


「若い頃の話をしても、いいか」


「はい」


「生まれた街で、条約書記の見習いをしていた。隣の領主と水の取り決めがあった。川の水を、うちの街が三日、向こうが四日。口約束だった。何十年もそれで回っていた。……代替わりがあった。新しい領主は覚えていなかった。いや、覚えていないことにした。うちの街は争ったが、紙がなかった。何十年の事実があって、証しがなかった。畑が三年、涸れた」


 彼の声は平坦だった。平坦にしか話せない話というものがあるのを、エリアナは知っていた。


「この紙は、その後で私が書いた最初の取り決めだ。水の配分。両方の判。これがあってから、あの川で人は争っていない。書かれたことだけが、人を守る。私はそう学んだ。曖昧さは優しさの顔をしているが、いちばん弱い者から順に殺していく。だから私は迷いを消す。……それが私の誠実だ」


 エリアナはすぐには答えなかった。答えの代わりに聞いた。


「その取り決めを書いた時。フェン殿は、誰に向けて書きましたか」


「……街の皆にだ」


「顔の見える、皆にですね」


「…………」


「あなたの最初の紙は、守る相手の顔を知っていた。涸れた畑を知っていた。だから、正確に書けた。……いまの草案は、誰の顔を知っていますか」


 オズワルドは長いこと黙っていた。


「記録は、過去を守ります」


 エリアナは静かに言った。


「あなたのあの一枚の紙も、本当は記録です。『我々はこう決めた』という。……教典は未来を縛ります。顔も知らない未来を。フェン殿。あなたが信じてきたのは文字ではなく――文字に書き留められた、あの街の事実の方ではありませんか」


 彼は答えなかった。ただ、机の上の二つの山を順に見た。それから灯りを少し暗くして、言った。


「……夜分に失礼した。おやすみなさい、フォルツ殿」


 追い出されたのだと分かったので、エリアナは素直に立った。戸口で一度だけ振り返る。オズワルドは、またガロの報告書を開いていた。


 撤回の届けは翌朝、オズワルド自身の字で書かれていた。


 《標準草案、第一次の、全条文を、撤回する。理由。正確に、書かれた、条文が、現場の、裁定を、止めた。原因は、条文の、不備では、なく、規範という、形そのものに、あると、判断した。編纂官、オズワルド・フェン》


 同盟は揉めたらしい。委任は王都から来ている。成果物は規範のはずだった。その全部を、レティシアが統括の名で受け止めた。彼女の意見書は報告書の文体をしていた。見たままが並べてあり、意見は最後の二行だけだった。


 《規範は、伺う先を、増やすだけである。諸都市に、要るのは、伺う先では、なく、互いの、記録である》


 編み直しの方針は、編纂室の壁に貼り出された。オズワルドの字で。


 一 命令形を用いない。

 一 各街の記録を、各街の言葉のまま載せる。

 一 成功と失敗を分けない。

 一 編纂室は集めて、並べる。直さない。


「直さないが、いちばん難しい」


 オズワルドはぼやいた。ぼやきながら、その日届いた帳面の誤字を直したい右手と戦っていた。


 書名はずいぶん揉めた。『都市運営記録集』では堅い。『諸都市事例集』では役所の棚で眠る。決めたのは結局、グレイシャから写字の見習いに来ていたニコの一言だった。


「しくじり帳でいいじゃないですか。みんな、もうそう呼んでます」


 『諸都市しくじり帳』。


 序文はオズワルドが書いた。何日もかかった。条文なら半日で書ける人が、命令形のない短い文に何日もかかった。


 《これは、命令では、ない。

 あったことの記録である。

 ここにあるのは答えではなく、他の街の迷いと、しくじりと、そのあとの話だ。

 読んだ、あなたが、あなたの街の答えを、出すために使ってほしい。

 あなたの街の迷いと、しくじりも、いつか、ここに、足して、ほしい。

 この本に、終わりの頁は、ない。》


 エリアナは校正の写しで、それを読んだ。読み終えて、しばらく何も言えなかった。あの畳まれ続けた一枚の紙から、ここまでの距離を思った。


 そして、最後の一つが残っていた。


 校正刷りの表紙には、まだあの一行が残っていた。


 《監修 エリアナ・フォルツ》


 同盟の決裁事項。彼女の請願は、事業の形が二転三転する間、誰も手をつけずに棚の上にあった。


 その決裁の席に、エリアナは初めて自分から出た。最初で最後の出席だった。


「この本から、私の名前を外してください」


「……フォルツ殿。お立場は分かりますが、原典はあなたの記録です。それは事実だ。事実を消せと仰るのか」


「事実なら、本文にあります」


 エリアナは静かに言った。


「リュネアの帳面は、リュネアの章に載っています。私の名前も、決めた者の欄に日付と一緒に何百回も出てきます。中身にいる分には、私はただの書き手の一人です。……ですが、表紙は違う。表紙の名前は、中身の全部を保証する名前です。読む人は迷った時、自分の頭ではなく、私の名前に伺いを立てる」


 彼女は一度、息をついた。


「この本のいちばん大事な約束は、序文に書いてあります。『読んだあなたが、あなたの街の答えを出す』。表紙に私の名前がある限り、その約束は嘘になります。答えの出どころが、表紙に印刷してあるのですから」


 決裁は通った。


 新しい表紙の刷りが届いたのは、三日後だった。


 《諸都市しくじり帳

  編 都市同盟 第三調整部》


 個人の名前は、どこにもなかった。オズワルドの名も、レティシアの名もない。二人ともそれを望んだ。「集めて並べただけですから」と編纂官は言った。書き手の名前は全部、中身にある。ガロの名も。ミーナの名も。彼女の名も。ただの書き手の一人として。


 夜、エリアナはその表紙を机に置いて、長いこと見ていた。


 名前が消えた。肩書を返した時とも、街を去った時とも違う感触だった。あれは身軽になる感じだった。これは、強いて言えば、返し終えた感じだ。借りていたものを、最後の一つまで。


 戸口で音がした。


 ガイウスが荷物を抱えて入ってきた。木の椅子だった。古いが、しっかりした造りの。


「なんですか、それ」


「椅子だ。見れば分かるだろう」


「うちには椅子なら、あります」


「一つしかないだろう。俺が来るたび、お前は椅子で、俺は樽だ」


 彼は卓の向かいにそれを据えた。据えてしまうと、まるで最初からそこにあったような顔をして収まった。


「王都には、断りを書いた」


 椅子に腰を下ろして、彼は言った。


「理由の欄に一行。『現場に残るべき事情がある』」


「……事情の中身は、書きましたか」


「書いてない。聞かれたら、こう言う」


 彼は卓の上の、二つの椅子の間を顎で示した。


「椅子が、二つ、あるからだ」


 エリアナは何も言えなかった。言えないまま、湯を沸かした。


「祝い酒でも出すか」


「お茶で結構です」


 湯呑みが二つ、卓に並んだ。


 王妃にはなれなかった。


 だが今、私は――


 名前の要らない仕事をした。その中身のどこかにいる。


 表紙から、名前が一つ消えた。


 委任状の署名の欄には、まだ一つ、残っている。

四十年、直すことを仕事にしてきた人が、直さない方針を壁に貼りました。筆を置いたのは本人です。

そして表紙から名前が一つ消え、台所に椅子が一つ増えました。


次回、最終話。署名の人が、リュネアに来ます。


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