最終章 第5話 椅子が、二つ
王都の紋を見た日から、一年が経っていた。
その客は、先触れもなく来た。旅装の質は良かったが、供は二人だけ。記録棚の建物の入口で、客は外套の頭巾を下ろした。
レオンハルト。王太子、その人だった。
「……忍び、ですか」
「正式に来れば、街道が掃き清められる。掃き清められた街を見に来たのではない」
エリアナは一礼だけした。膝は折らなかった。この街に、膝を折る習慣はない。レオンハルトもそれを求めなかった。求めないことが、できるようになった人が、そこに立っていた。
彼は案内も断って、記録棚を歩いた。長いこと、歩いた。棚の一冊を抜いて読み、戻し、また歩いた。詰所も見た。市場も歩いた。誰も、彼に気づかなかった。気づかないことに、彼は一度だけ小さく笑った。
夕方、二人は広場の隅の長椅子に座った。供は遠くに立たせた。露店の灯りが、ぽつぽつと点き始めていた。
「しくじり帳は、王都にも届いた」
レオンハルトは、前を向いたまま言った。
「読んだ。全部読んだ。決裁の山の上でな。あれを読んでいる間だけ、山が静かに見えた」
「恐れ入ります」
「皮肉ではない。……王都は変わり始めている。ゆっくりだが。区ごとに決める者を置いた。記録を開いた。帳面も書き始めた。最初の頁は俺が書いた。『決裁を抱え込み、王国の全部を遅くした。十年かかったしくじりである』と」
「…………」
「笑っていいぞ」
「笑いません。……いい頁だと思います」
露店の灯りが少しずつ増えていく。子どもが走り、楽人が笛を吹き始める。いつものリュネアの夜が、始まろうとしていた。
「――エリアナ」
レオンハルトが名を呼んだ。昔の呼び方だった。
「一つだけ聞いてくれ。俺はあの日、お前に言った。『王妃に華が必要だ』と。……あの言葉を、俺はまだ、間違いだったと言い切れずにいる」
エリアナは彼を見た。
「国を束ねる席には、人を惹きつける何かが要る。それはいまでもそう思う。だから、あの言葉ごと間違いだったと言ってしまうのは嘘になる。……だが、あの言葉でお前を外したことは。それだけは」
「殿下」
エリアナは静かに遮った。
「華は、必要です」
レオンハルトが目を見開いた。
「あなたの仰った通り。人には華が要ります。ただ、私もあなたも、あの頃、華の意味を間違えていました。壇の上の飾りのことだと思っていた。仰がせる力のことだと」
彼女は広場の灯りを見た。
「隣の街に、セレナ様がいます。いま彼女は壇に上がりません。それでも、あの街の人は朝、彼女の顔を見ると、少し背筋が伸びるそうです。……華とはあれのことです。人を仰がせる力ではなく、人を前に向かせる灯り。彼女はそれを一度間違えて、それから自分で学び直しました。私には最初から、その才がない。だから私は、私にできる別のやり方で街を立てました。それだけのことだったんです」
「……王妃に華が必要、か」
「ええ。ですから、あの言葉は正しかった。私が王妃にならなかったことも、正しかった。あなたは選び方を間違えたのではありません。言葉の意味を、二人とも知らなかった。それだけです」
レオンハルトは長いこと黙っていた。
それから立ち上がり、外套の頭巾を上げた。
「……この街には、また来る。忍びでな。次は、あの湯屋に寄りたい」
「どうぞ。頭は誰も下げませんが」
「それを確かめに来る」
彼は供を連れて、雑踏に消えた。荷物は、来た時より一つ増えていた。表紙に誰の名前もない、あの本だ。
エリアナは帰り道、市場で果物を買った。グレイシャの赤い実。先日、セレナが先触れも手紙もなしに来て、「その赤いのよりこっちが甘いと思うわ」と教えて帰った、その実だ。次はいつ、とは聞かなかった。約束にすると、果たさなければいけなくなるから。来たい時に来る。それが二人の決めた、決まりのない決まりだった。
家に帰ると、台所に灯りが点いていた。
ガイウスが先に帰っていて、湯を沸かしていた。彼女の椅子と、彼の椅子。湯呑みが二つ。どちらがどちらの椅子か、いつのまにか決まっていて、どちらもそれを口に出したことはない。
「今日は、何かあったか」
「……お客が。一人」
「そうか」
彼は聞かなかった。聞かないまま、湯を注いだ。
夕餉は、簡単なものにした。パンと、スープと、市場の果物。食べながら話したのは、湯屋の新しい番台の話と、果物の値の話だった。国の話はしなかった。街の話も、ほとんどしなかった。する必要がなかった。
食後の茶を淹れて、エリアナは自分の椅子に座り直した。
ふと思う。この台所より狭い場所を、彼女は知らない。王宮の広間も、リュネアの詰所も、グレイシャの広場も、同盟の決裁の席も、ここより広かった。
そして、この台所より遠くまで来た場所を、彼女は知らない。
「――ガイウス」
「なんだ」
「私は、王妃になりたかったのだと思いますか」
ガイウスは湯呑みを置いて、少し考えた。この人はこういう突然の問いを笑わない。五年隣にいて、一度も笑わなかった。
「……昔は分からなかった」
「いまは」
「違うな。お前がなりたかったのは、王妃じゃない」
「では何です」
「要る人間、だろう」
静かな声だった。
「誰かに要ると言われる人間になりたかった。王妃ってのは、そのいちばん分かりやすい席だった。それだけだ。……で、お前は回り道して、要ると言われなくても立ってられる人間になった。そうしたら」
彼はそこで、少し言葉を切った。
「そうしたら?」
「……俺が要るようになった。困った話だ」
言い方があまりに彼らしくて、エリアナは笑ってしまった。笑いながら、目の奥が少し熱くなった。
「私もです」
声が少し掠れた。
「街にはもう、要られていません。本にも、名前は要られなくなりました。それでいいと、心から思っています。……そのうえで、私はこの台所に要られています。この椅子に。ここが、私の、帰る場所です」
初めて、それを言葉にした。
ガイウスは何も言わなかった。ただ、立ち上がって、彼女の湯呑みに湯を足した。それから自分の椅子に座り直した。いつもと何も変わらない座り方で。何も変わらないことが、返事だった。
窓の外で、リュネアの灯りが揺れている。
遠い王都でも。隣のグレイシャでも。今夜も誰かが帳面を開いて、誰かのしくじりを読んでいる。どの街の真ん中にも大きな火はない。小さな灯りが無数にあって、互いに照らし合っている。
そのどの中心にも、彼女はいない。名前さえ、もう表紙にはない。
王妃にはなれなかった。
華も、なかった。
中心にも、ならなかった。どこの街の中心にも。本の表紙にも。
けれど。
だが今、私は――
名前さえ、置いて。ただ、ここに、いる。
二つの椅子の片方に。二つの湯呑みの片方の前に。誰かの隣に要られて。その人を要って。
それが私の見つけた、いちばん小さくて、いちばん確かな席だった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
第一部は「降りる勇気」の話でした。
第二部は「降りた人が、もう一度降りられるか」の話でした。
この最終章で描きたかったのは、「名前からも降りる」でした。
仕組みは名前を失って、初めて根づく。
根づいた仕組みは、もう誰のものでもない。
そして、すべてを降りた人にも、最後に一つだけ席が残る。誰かの隣という席です。
エリアナの物語は、これで本当におしまいです。
長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。
またどこかの物語でお会いできましたら。




