最終章 第3話 模範では、ありません
同盟の使者は、丁寧だった。
丁寧という技術でできているような人だった。セレナはその丁寧さの質を、よく知っていた。王宮で毎日浴びていた種類の丁寧さだ。目当てがこちらの中身ではなく、こちらの表面にある時の。
「模範実践者、ですか」
「はい。標準草案の普及には、生きた模範が要ります。グレイシャはリュネア方式の最初の成功例。あなたはその立て直しの立役者。諸都市を巡って、講話を。壇上に立っていただくだけでも結構です。あなたの名とお顔には、人を頷かせる力がございますので」
断りの言葉は、すぐ喉まで来ていた。
来ていたのに、セレナは一拍遅れた。
その一拍の間に見えたものを、彼女はあとから何度も思い返すことになる。壇。灯り。並んだ顔、顔、顔。自分の声に頷く無数の首。求められて、応えて、また求められる、あのあたたかい循環。
――欲しかったもの、全部だ。
しかも今度は、正当な理由がついている。善いことのために。普及のために。誰の席も奪わずに、壇に上がれる。
「……お返事は、七日後に」
即答で断れなかった。その事実が、使者が帰ったあとも棘のように残った。
夕方、セレナは詰所に寄った。
ガロが若い連中の報告を聞いていた。草案の写しが、詰所の棚にもあった。誰かが几帳面に栞を挟んでいる。
その隣の棚に、もう一冊、帳面がある。
こちらはぼろぼろだった。表紙がめくれ、端が手垢で丸くなっている。グレイシャの詰所がこの半年、自分たちでつけてきた帳面。皆が「しくじり帳」と呼んでいるものだ。
うまくいかなかったことを書く。荷の順を変えて、かえって詰まらせた日のこと。裁定を急ぎすぎて、聞くべき人に聞かなかったこと。誰のせいかは書かない。何が起きたかだけを書く。言い出したのはガロだった。「成功は真似できないが、しくじりは避けられる」――彼らしい理屈だった。
その帳面のいちばん初めの頁には、セレナ自身のしくじりが書いてある。標語を一語間違えて、街を逆に向かせた日のことが。日付も、経緯も、全部。
帳面の前にニコがいた。膝の上に自分の帳面を広げて、しくじり帳を写している。十五になった。背が伸びた。
「また写しているの」
「はい。こっちの方が面白いんです。草案は――」
彼は少し言葉を選んだ。
「草案は、読んでも質問が出てこない。しくじり帳は、読むと質問だらけになる。なんでこうしたんだろう、とか。おれならどうしたかな、とか」
読むと、質問だらけになる。
セレナはその言い方を胸に留めた。誰に教わったのでもない。この子が自分の手で写しながら見つけた違いだ。
夜、一人になってから、セレナは窓辺で長いこと座っていた。
壇の上の自分を想像する。諸都市の広場で話す自分。「グレイシャは、こうして立ち直りました」。頷く群衆。拍手。
その絵の中の自分が話しているのは、成功の話だけだ。
壇の上では、しくじりは話せない。壇はそういう場所ではない。壇は仰ぐための場所だ。仰がれるものは、間違えていてはならない。
あの絵の中に、あのぼろぼろの帳面の居場所はない。
「……ふふ」
小さく笑いが漏れた。以前の私なら、迷いもしなかった。
七日後、使者はまた来た。
今度は書記を連れていた。承諾の言葉をその場で書き取るためだろう。断られるとは、思っていないのだ。
セレナは返事の場所に、詰所の広間を選んだ。応接ではなく。広間には昼の詰所の音がそのままあった。裁定を待つ人の列。帳面を繰る音。若い者が年かさの者に、何かを確かめる声。
「お返事を伺えますか」
「お断りいたします」
書記の筆が、宙で止まった。
「……理由をお聞かせ願えますか。あなたほど模範にふさわしい方は――」
「私は、模範ではありません」
言いながら、自分の声が震えていないことに、少し驚いていた。
「一度、間違えた人間です」
「ご謙遜を」
「謙遜ではありません。記録の話です」
彼女は棚からしくじり帳を取り、最初の頁を開いて、使者の前に置いた。
「半年前、この街は私に寄りかかって麻痺しかけました。旗印はリュネア方式。実体は私一人。標語を一語間違えて、誰も気づかなかった。……ここに書いてあります。壇の上で話すなら、私はこれを話せない。壇とはそういう場所です。ですが、諸都市がいま本当に要るのは、成功の話でしょうか」
使者は帳面とセレナを見比べた。
「私の顔ではなく。この帳面を写して、配ってください」
使者は返答に詰まった。持ち帰って検討する、と言って帰っていった。しくじり帳の写しの許可だけは、几帳面に書面で求めていった。
「もったいないことをした」
ガロが広間の隅から言った。
「そう思いますか」
「思わん。あんたが壇に上がったら、うちの若いのがまたあんたを拝み始める。せっかく治ったのにな」
セレナは笑った。
その夜から、雨になった。
春の長雨とは、質が違った。山の方で降り続いた雨が川に集まり、夜明け前、共同管理区間の橋の上流で流木が絡み始めた。流木が堰になれば、水は道にあふれる。街道には朝の荷が動き始めている。
見つけたのは夜明けの見回りだった。グレイシャ側の若い警備と、リュネア側の若い警備。二人とも、草案の写しを詰所で読んでいる世代だ。
どうするかは決まっている。川止めだ。荷を止めて流木を外す。昔から何度もやってきた手順だ。
ただ一つ、問題があった。
《共同管理区間の、裁定は、両街の、代官の、合意に、依るべし》
正確で、公平な条文だった。代官の合意。ガイウスはリュネアにいる。グレイシャの代官は視察で街を空けている。使いを出して戻りを待てば、丸一日。
水は待ってくれない。
二人の若い警備が詰所に駆け込んだ時、そこにいたのはガロだった。セレナは戸口で、雨具を抱えたまま立っていた。何も言わなかった。言えば、決めるのが彼女になる。
「川止めだな」
ガロは報告を半分まで聞いて、立ち上がった。
「で、でも、条文が。代官の合意が要るって。勝手に止めたら、あとで――」
「あとでなんだ」
「責めを負うのは」
「俺だ」
ガロは雨具を掴んだ。
「昔のやり方でやる。決めるのは、いま、ここにいる俺だ。書いとけ。日付と、俺の名前と、理由。『水は待ってくれないから』。文句があるやつは、あとで俺に言え」
川止めは間に合った。
流木は堰になる前に外された。街道の荷は、半日止まっただけで済んだ。セレナがしたことは一つだけだった。湯屋に頼んで、朝から湯を開けさせた。濡れた警備たちがそこで温まった。それだけの朝になった。
何も起きなかった。何も起きなかったことがどれほどのことか、帳面を読む者なら分かる。
三日後、ガロの報告書が同盟の編纂室へ送られた。共同管理区間の出来事は、同盟に報告される決まりだからだ。無骨な字で経緯が書いてあった。飾りはなかった。最後の一文だけが、報告書の体裁から少しはみ出していた。
《条文に、従って、代官の、合意を、待っていたら、間に合わなかった。俺は、条文を、破った。同じことが、また、あれば、また、破る。破らなくて、いい、条文に、しておいて、ほしい》
セレナはその写しを読んで、しくじり帳の新しい頁に綴じた。しくじりではない。だが、しくじりかけた記録だ。
王妃にはなれなかった。
だが今、私は――
間違えた日の私が、いちばん誰かの役に立つと知っている。
壇の上に置けないものを、今日、一冊、差し出した。
――その頃、リュネアの卓には、王都からの書状がもう一通届いていた。
宛名は、エリアナ・フォルツではなかった。
壇の上に立ってほしいという誘いを、セレナが断りました。差し出したのは自分の顔ではなく、自分のしくじりでした。
そして雨の朝、ガロが条文を破ります。
次回、リュネア。届いた書状の宛名と、四十年、文字を信じてきた人の話です。
以前とは別人の断り方に、胸が熱くなった方は、
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