最終章 第2話 こう、せよ
夕方、戻った。
台所に、灯りが点いていた。ガイウスは何も聞かず、湯を沸かした。湯呑みは二つ。彼女が椅子に、彼が樽に座る。昼間の書状のことを、エリアナは短く話した。彼は「そうか」とだけ言って、湯を注ぎ足した。
編纂官は、その三日後の雨の日に着任した。
オズワルド・フェン。同盟第三調整部、上席編纂官。初老の痩せた男で、荷馬車から降ろされた荷物の大半は、白紙の帳面と写字の道具だった。指先だけが、墨でうっすらと染まっている。長く、紙のそばで生きてきた人の手だった。
彼は、まず記録棚の建物に来た。そして入口で、深く一礼した。人にではない。建物にである。
「……十年、条約書記を務めましたが。これほどの記録は見たことがない」
声に、世辞の色はなかった。本物の敬意だった。
エリアナは、案内に立った。断る理由がなかったからだ。オズワルドは棚の一冊を手に取る前に、指先を布で拭った。書物を、大切にする人の癖だった。
「たいていの街の記録は、結果しか書かない。これは迷いまで書いてある。『二案で迷ったが、東の桟橋を先にした。西は次の乾期に』――迷いがあるから、あとで読んだ者が考え直せる」
分かっている、とエリアナは思った。この人は、記録の価値が分かっている。だから、続く一言に油断していた。
「よい記録です。守られるべきことばかりだ」
「…………」
「これを規範の形に整えます。どの街でも同じように守れるように。それが私の仕事です」
雨音が、少し強くなった。
「フェン殿。それは、守るものではありません。あったことです」
オズワルドは、不思議そうな顔をした。怒るのでも、反発するのでもない。本当に、ただ不思議そうだった。
「同じことではありませんか。よいことが書いてある。よいことは守られるべきだ。……どこか間違っていますか」
理屈は、通っている。一段ずつは、正しい。なのに、届いた先が違う場所になっている。エリアナは、そのずれを言葉にしようとして、できなかった。書いた本人なのに。いや。書いた本人だからかもしれなかった。
写しの許可を求める手続きの書類は、完璧な書式だった。断る理由が、ない。
「どうぞ」
「ありがとうございます。よい仕事をします。あなたの街のやり方が、正しく伝わるように」
正しく、伝わるように。その言葉にも、悪意は一片もなかった。
草案の第一版は、ひと月で届いた。
『都市運営標準草案 第一次』。表紙は厚紙で、綴じ紐は同盟の藍色。持ち重りのする一冊だった。
題字の下に、一行。
《監修 エリアナ・フォルツ》
読み間違いではなかった。何度見ても、自分の名前だった。断った。確かに断った。あの茶房で、はっきりと。
頁を開く。
《第一条 決裁は、現場に、返すべし》
《第二条 決めた者は、名と、理由を、記録に、残すべし》
《第三条 記録は、何人にも、開かれるべし》
べし。べし。べし。どの頁も同じ語尾で揃っていた。
内容は正しかった。恐ろしいほど、正確に写されていた。彼女がやってきたことが、迷いながら選んできたことが、一つずつ条文になって、行儀よく並んでいた。なのに、読み進めるほど息が詰まった。
午後、ミーナが写しを返しに来た。
「読んだ?」
「読みました」
「……間違いはなかったよ。全部うちでやってることだった。でもさ」
ミーナは、表紙を指で叩いた。
「なんだか、息が詰まるね、これ。やってることが書いてあるだけなのに。読んでると、やらされてるみたいな気持ちになる」
同じ感想だった。理屈より先に、体が分かっている。なら、理屈の方を追いつかせる番だ。
エリアナは記録棚から、古い一冊を抜いた。自分の字だ。荷役の頁。
《市場の、荷下ろしの、順を、変えた。朝の、混雑が、ひどかったから。まず、生ものから。……うまく、いかなければ、戻す》
草案の、対応する条文を探す。
《第十四条 荷役の、順序は、鮮度順と、するべし》
二つを机に並べて、長いこと見比べた。
記録は、言っている。私たちはこうした。うまくいかなければ戻す、と。過去の報せだ。迷いの跡が残してある。読む者は、その迷いごと受け取って、今日の自分の答えを出す。
条文は、言っている。こうせよ。未来への命令だ。迷いは、消してある。読む者に残された仕事は、従うかどうかしかない。
――一語。
グレイシャの標語を、思い出した。《自分を、含めない》が《自分が、支える》に変わっていた。たった一語で、街が逆さまを向いた。
あの時は、一語だった。今度は語尾だ。すべての文の語尾が、「した」から「せよ」へ。一冊まるごと、逆さまを向いている。しかも写した本人は、一字も間違えたと思っていない。
夕方、詰所の前を通った。若い職員が二人、草案の写しを手に立ち話をしていた。
「橋の補修の件、どうする」
「東の桟橋の時と同じでいいだろ」
「待って。草案だとどうなってる? 条文、合ってるか先に見とこう。あとで違うって言われたら面倒だ」
二人は、頁を繰り始めた。
エリアナは、足を止めなかった。止めなかったが、その短いやりとりは、棘のように残った。あの子たちは昨日まで、記録を読んでいた。今日は、条文を見た。誰も命じていないのに。まだ草案なのに。
編纂室は、記録棚の隣に間借りしていた。オズワルドはいつも通り、几帳面に机に向かっていた。
「この名前は、何ですか」
エリアナは、表紙を卓に置いた。声は抑えた。抑えたが、自分でも、硬いのが分かった。
「監修のお名前です」
「私は監修をお引き受けしていません」
「存じております。ですから、俸給も権限もおつけしていません。これはただの事実の記載です。この草案の内容は、あなたの記録に拠っている。原典を明記するのは編纂の誠実です。……あなたに教わった誠実ですよ。名と理由を残せ、と」
言葉が、出なかった。彼の理屈は、また一段ずつ正しかった。
「……それでも、外してください。その名前があると、読む人が変わる。『エリアナ・フォルツの監修した規範』。そう読まれた瞬間、条文は私の声になります」
「それの何がいけないのです。あなたの名は諸都市の安心です。この名前があるから、皆が信じて従える」
従える。また、その言葉だ。
「名前の扱いは同盟の決裁事項です。私の一存では外せません。ご不服なら正式な手続きを」
オズワルドはそこで筆を置き、少し迷ってから言った。
「――いっそ、あなたが書いてくださらないか」
「…………」
「私の条文は正確です。ですが、あなたの記録のあの力がない。読んだ者を動かす力が。原典の著者が自ら書けば、それは宿る。あなたなら半日で書ける。私には分かる。あなたの字を、ひと月、読み続けてきましたから」
半日で書ける。その通りだった。
エリアナは自分の中に、その一冊がすでにあることを知っていた。何を書くべきか。どの順で。どの言葉で。「せよ」を使わずに、迷いを消さずに。書けば、詰所の若い子たちはまともな一冊を手にする。誰も傷つかない。誰にも命じない。ただ書くだけ。
書けるのだ。それが、問題だった。
書けば、いい本になる。いい本になるほど、まずい。読んだ人は次に迷った時、自分の頭ではなく、あの本の著者ならどうするかを考える。条文の上に、彼女が立つ。紙の王妃になる。どこの街も治めずに、すべての街の真上に。
「お断りします」
「……理由を伺っても」
「正しく伝わることが、いちばん危ないからです。私の一冊は、正しく伝わってしまう。私の声で。私の名前で」
オズワルドは、長いこと黙っていた。反論しなかったのは、初めてだった。
夜。
台所の灯りの下で、ガイウスが言った。
「言わなくて、いいのか。詰所の連中に」
「言えば、私が条文の上に立ちます」
「ふん。……で、いつまで黙ってる」
「街が自分で気づくまで」
「気づかなかったら」
エリアナは、答えを持っていなかった。
グレイシャは、気づいた。だがあれは、セレナがいたからだ。間違える側に立ち続けた人がいたから、気づけた。条文には、顔がない。顔のない中心は、誰も疑わない。
王妃にはなれなかった。
だが今、私は――
名前だけが、王妃になろうとしている。私の知らない場所で。私の断った席で。
数日後、グレイシャから手紙が届いた。ガロの無骨な字だった。
《同盟の、使いが、セレナ様の、ところに、来た。壇に、上がってくれと。……セレナ様は、まだ、返事を、していない》
「した」と「せよ」。語尾一つの話です。
自分の街を半日で直せると分かっていて、直さない。この章でいちばん重い我慢が、ここから始まります。
次回、グレイシャ。セレナの返事の日です。
誠実すぎる編纂官に、早くも嫌な予感がした方は、
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