最終章 第1話 ただの、お茶
最終章、はじまります。
届いた手紙のとおり、まずは、お茶から。
朝の台所は、静かだった。
湯が沸く音。パンを切る音。それだけの朝だ。
エリアナ・フォルツは、外套を羽織った。
「グレイシャか」
ガイウスが、聞く。卓の向かいで、樽に腰を下ろしたまま。
この家に、椅子は一つしかない。彼が来るたび、椅子は彼女のもので、彼は樽に座る。それがいつからか、決まりになっていた。
「ええ。お茶の約束がありますから」
「仕事じゃ、ないんだな」
「仕事では、ありません」
少し、誇らしげに聞こえたかもしれない。それでもよかった。
街のためでも、契約のためでもない外出。肩書を返してから、初めてかもしれなかった。
「行ってきます」
その言葉も、たぶん初めて言った。
誰かが待っている場所へ、行く。帰る場所に、誰かがいる。それだけのことが、まだ少しくすぐったい。
「ああ。……夕方には、戻るか」
「戻ります」
街道は、よく晴れていた。
共同管理の区間に入る。詰所の若い警備が、荷馬車の順番をさばいている。誰にも、聞かずに。境の標はもう、ほとんど意味をなしていない。荷は、気にせず行き交う。
グレイシャの城門をくぐる。
市場は、回っていた。声があちこちで交わされ、決められ、流れていく。半年前、この街のすべての声が一人の女性へ向かっていたことを思えば、別の街のようだった。
いや。同じ街が、自分の足で立っただけだ。
約束の店は、市場の外れにあった。古い茶房。看板は小さい。
セレナは、先に来ていた。
「いらっしゃい」
華やかな笑み。だが以前のような、壇上の光り方ではなかった。卓と同じ高さにある灯りだった。
「約束、覚えていてくださったのね」
「手紙をいただきましたから」
「街のことは話さない。いいですね?」
「ええ」
茶が来た。
二人は、本当に街の話をしなかった。茶葉の産地の話。菓子の焼き加減の話。グレイシャの冬の風の癖。リュネアの市場の果物の値。
それからセレナは、少し笑って言った。
「代官様とは、その後、いかが」
「……何の話でしょう」
「隣を選んだと聞きましたけど」
「誰に」
「風の噂に」
エリアナは、茶器で口元を隠した。
セレナは、声を立てずに笑った。勝ち誇るのでも、からかうのでもない。ただ、嬉しそうだった。
「いいことだと思います。あなたはずっと、自分の分だけ後回しでしたから」
「あなたは、どうなんです」
「私は――」
セレナが答えかけた、その時だった。
店の入口で、鈴が鳴った。
旅装の女性が、立っていた。埃を払いもせず、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「――レティシア・クロウ」
都市同盟、第三調整部の視察官。どこにでも、現れる人。
「お茶の席に失礼します。リュネアのお宅に伺ったら、グレイシャだと言われましたので」
「……座りますか」
「いえ。今日は届け物だけ」
彼女は一通の書状を、卓に置いた。
封蝋の紋。都市同盟のそれではなかった。もっと古く、もっと重い。
――王都の紋だった。
エリアナの手が、一瞬止まる。
「同盟から正式な通達は、後日行きます。ただ、あなたには先に知らせておくべきだと思いました」
レティシアの声は、いつも通り平坦だった。
「王都が決めました。行政の立て直しに――リュネア方式を採用すると」
「…………」
「王都では、あらゆる裁可が玉座へ上がります。街道の補修も、市場の税率も。殿下は夜半までそれを読まれる。それでも山は減らない。……『辺境のあの街は、なぜ、速い』と。殿下が仰ったそうです」
セレナが、息を呑むのが分かった。
「実務は都市同盟に委任。第三調整部が、方式の成文化と標準化を行います。各都市へ、共通の規範として配るために。編纂の拠点はリュネアに置かれます。記録の原本があるのは、あの街ですから」
レティシアは書状の下から、もう一通、薄い封書を出した。封蝋は王太子の私印だった。
「それと。成文化にあたり、あなたに監修者として名前を頂きたい、と。殿下の直々のご要請です」
茶房の中の音が、遠のいた。
監修。名前。
エリアナは、封書を開かなかった。開かないまま、静かに卓の向こうへ戻した。
「お断りします」
「……理由を伺っても」
「私はもう、何の肩書も持っていません。ただの一市民です。その名前に、規範を支える力を持たせてはいけない」
「あなたの名があれば、諸都市は安心して――」
「安心して、従います」
エリアナは、静かに言った。
「従わせるための名前なら、ないほうがいい」
レティシアは、しばらく黙っていた。それから封書を懐に戻した。
「伝えます。……ですが、編纂は止まりません。委任はもう発効していますので」
「ええ。それを止める権利は、私にはありません」
視察官は一礼して、戸口で一度だけ振り返った。
「セレナ殿。あなたにも後日、同盟から別の話が行きます。模範実践者として、壇に、と。……私からは、それだけ」
鈴が鳴って、彼女は去った。最後まで茶には手をつけなかった。
店の中に、沈黙が残った。
セレナが、書状とエリアナの顔を見比べる。
「……ねえ。これは、喜ぶところなのかしら」
「分かりません」
エリアナは、正直に言った。
仕組みは、広がった方がいい。ずっとそう思ってきた。模倣する街が増えていることも知っていた。それは望んだことそのものの、はずだった。
なのに。
成文化。標準化。共通の規範。
その言葉の並びが、なぜか胸の底に冷たく触れた。
「壇、ですって」
セレナが、ぽつりと言った。笑おうとして、うまく笑えていない顔だった。
「……あの頃の私なら、飛びついたでしょうね」
「今は」
「分からない。それが答え、かしら」
二杯目の茶は、少し冷めていた。二人はそれを、それでも最後まで飲んだ。
帰りの街道で、日が傾いた。
王妃にはなれなかった。
だが今、私は――
久しぶりに、王都の名前を聞いた。胸は、もう騒がない。……はずだった。
夕方には戻ると、言ってきた。
その約束だけは、守れそうだった。
最終章の始まりです。
壊れた街を直す話は、もうしません。今度、押し寄せてくるのは「正しさ」の方です。
次回、リュネアに編纂官が着きます。とても誠実な人です。……とても。
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