8 災
長い針金のような雨が、巨大な鉄骨の台地を浸食してゆく。
風に煽られて斑となる雨音は散弾銃の如く、居住する私たちに威嚇射撃を繰り返している。
この頃私は家族の事でいっぱいいっぱいだったから知らなかったのだけれど、一號基が冠水しているらしく、晴れていても常にスニーカーの底ぐらいの厚さには水が浸かっているらしかった。
外湖の湖面が上昇している。
一號基に住んでいた人たちは徐々に二號基へ避難してきていた。
金持ちは既に国外へ離脱しているという噂も聞く。雨量は増し、花の蔓延は収まらず、人々は激化するばかりのこの地を見限ったのだ、と。
解る。私もできる事ならそうしたい。
けれど私にそんな大きな事を実現する力は無く、私はひとり、静かな絶望に浸っていた。
避難してきた人たちは休校中の学校を利用し、救援物資頼みの生活を送っているらしい。決して快適ではないはずだ。
そのせいか近頃、目の据わった異様な雰囲気の人がうろついているのを見かけるようになった。その様子は、何かに飢えているようであり、何かを探っているようでもある。正直、気味が悪い。
夜になると家の周りでも、これまで聞いた事のなかったような声が飛び交う。喧噪とまではいかないものの、どこか穏やかでない。
人々の鬱憤が溜まっている。
その矛先は何処へ向かうかわからない。
目立たぬよう大人しくしていなければ。
そう思っていた矢先だった。
朝、部屋のカーテンを開けると、窓に手形が付いていて声を上げそうになった。
何を触ったのか知らないが、灰色で、私の手よりも大きくて、私の目線よりも少し上から下へと向かってべっとりと引き摺った跡が付いている。
嫌がらせだと思った。この家を探りたいなら痕跡を残すべきではないし、侵入するつもりなら窓硝子なんて簡単に割れる。広い家だから裕福そうに見えて、妬まれたのかもしれない。
実際、物資はあるといえばある。
父は日用消耗品や日持ちする飲食料やらを買い溜めする癖があった。「それは少し多すぎるのでは?」と訊いた事もあったけれど、「どうせ使う物だから」とか「腐る物じゃないから」とか言って、私が想定する三倍は買い込むのだった。引き篭もっていた頃の名残に違いない。
でもそのおかげでいま私たちは食糧難に怯える事は無いし、その気になれば向こう数ヶ月は篭城する事だってできる。
しかし問題は、この広い家を紗菜とふたりで守り切る自信がないという事。と言うより、絶対に無理だという事。
もしこの家に大人が居ない事が知れたら、恐るるに足らずとばかりに強奪しに来るかもしれない。
もし母の犯罪が知れていて、花の増殖に加担した背徳者の子供だと知れたならば、ただ物を盗られるだけでなく、憎悪を浴びる事になりかねない。
急に嫌な想像が膨れ上がり、生々しい悪寒を感じた私は紗菜を呼び、
「見て、これ。誰かがこの家を見てる」と汚い手形を指差すと、
「うわ、気持ち悪い」と嫌悪と恐怖が綯交ぜになった顔をした。同感。
「今日から地下室で寝よう」
私はそう言い、その日のうちに缶詰やボトル飲料、毛布やその他必需品やらをふたりで地下室に運び込んだ。
窓の手形は丁寧に拭き取っておいた。あなたの嫌がらせを認知しました、警戒を強化します、という意思表示のつもりで。
この時、館長さんを頼るという発想が出てきたならば、違う未来になっただろうと思う。
夜中、地下の射撃訓練室の的に紛れて毛布に包まっていると、耳慣れた扉の軋む音が聞こえて総毛立った。毎日のように聞いていたリビングと廊下を繋ぐ扉の鳴る音が、天井を通して伝わってくる。昼間は宣戦布告に近い感情で篭城の準備をしたつもりでいたが、実際に人の気配を感じると想像以上に戦慄するものだ。
私は傍に置いていた自分の狙撃銃を思わず引き寄せた。これは、父から教わっていた射撃の腕前が上達してきた頃にねだった物で、「それは杏葉にはちょっと大きいだろう」と言われつつも「このマットな質感の黒と靱やかなフォルムが良い」とこの型に対する愛を熱弁すると、「まあ、わからんでもない」と言って買ってくれたのだった。その時は勿論、動かない的を撃つ事しか考えていなかったから、少々大きくても構わないと思ったというのもある。
いまやこの銃は私の右腕によく馴染み、私に忠を尽くしてくれるドーベルマンのように可愛がっていた。この仔を撫でると妙に冷徹な自分が降りてくる。
そう、この地下室はかつて景仁さんの研究室だった、セキュリティを重視して造られた鉄の扉だ。十中八九、いや九割九分九厘以上破れるわけがない。
でも万が一という事はある。万が一の時に心構えが出来ていないのでは話にならない。
相手がプロの殺人者とでも言うのなら話は別だけれど、きっと有象無象の輩に違いない。決死の覚悟で臨めば結果は違ってくるはず。と信じたい。どちらにせよここに逃げ道はないのだからやるしかない。
そう思い、紗菜には扉が破られる可能性は限りなく低い事を伝えた上で、父が愛用していた軽い多機能斧を渡し、
「先端を相手の顔面に向けて逸らさず、剣道のように脇を締めて構えるだけで大分違うから。とにかくまずは闘志を見せる事。相手が軟弱ならそれだけで少しは怯んでくれるかもしれない。でも心配しないで。私が身動きできなくなったり死んだりするまでは全力で護るから」と力を込めて言うと、紗菜はかえって弱々しく目を逸らし、
「お姉ちゃんは強いね。わたしは自分が死ぬかもなんて考えられないよ……」
と言われて我に返り、反省した。私はどうも、ひとつの事象から極端に悲観的な結末へ思考を飛躍させてしまう癖があるらしい。
「そうだね。それが普通だよ。 それに私も別に強いわけじゃない……」
と語気を緩めて言ったけれど、それを聞き流したように紗菜は黙ったまま、片手で扱えるはずの斧の柄を両手で握りしめ、切っ先を見つめていた。
いま思えばこの時の会話は、父と母が車内でしていた会話に似ていたのかもしれない。私の思いで紗菜にも闘わせようとする。
でも私としては、私よりも紗菜が生きればいい、本心からそう思った。
それは思いやりや優しさではなく、諦念に近い感情だった。
鉢合わせるのが恐ろしかったため、少なくとも三日は地下に篭もって様子をみるつもりだったが、物音は夜毎さらに増し、足音も響き始め、一時は四、五人が居座っていたのではないかと思う。
最も恐ろしかったのは、鉄の扉を激しく叩かれた時であった。破れるわけがないと信じつつも、気絶しそうなほどに緊迫した。私たちは扉と対角になる隅に身を寄せ、愛銃を構えて座射の姿勢で待機したが、指先が冷え切って固くなり、こんなではとてもじゃないが引金を引けない、と泣きたくなるほどに震えて仕方がなかった。時間にすればものの数分だったはずだけれど、丸一日飲まず食わずだったかのように消耗した。体重も減ったかもしれない。
日が射し込まないため時計でしか時の経過を把握できなかったが、床下に棲む鼠のような生活を七日ほど続けた頃、突然、何の音もしなくなった。念には念を入れて、無音になってから四日待機した後、恐る恐る地下室から出てみると、やはりと言うべきか、家の中は盗賊が入ったように荒らされ、リビングは雑な野営でもしたように、飲食物の残骸や排泄物やらが散乱していた。
しかしやけに静かであった。外は晴天。清々しいほどに静まり返っている。人の気配がまるで無い。
そして私はようやく思い出した。館長さんはどうしているだろうか、と。
不自然な静寂の中、私は紗菜とふたり、歩いて図書館へ向かった。この間、誰ひとりとして見かける事はなかった。
扉は平常通り開き、両脇に立ち並ぶ背の高い本棚も変わりはなく、中央の通路をしずしずと進んでゆくと、徐々に空気は淀み、雨上がりの植物が発する独特の青臭さが漂い始めた。嫌な汗が滲みつつも真相を見ないわけにはいかない気がして、最奥の祭壇へ向かうとそこには、陽光射し込むステンドグラスに影絵の如く張り付いた、巨大な手のような黒い花が一輪、聳えていた。大きさはおよそ三メートル。茎は途中からガジュマルのように太く肉々しくなり、根は床の隙間に減り込んで、床板を隆起させていた。
その掌のような花弁とステンドグラスの狭間に館長さんの姿を見つける。胸元を花弁で押さえつけられていて、その力は途轍もなく強いらしく、背後のステンドグラスには放射状に罅が入っていた。館長さんの腹部から下はガジュマルに繋がっている。
なんてことだろう、と思った。
報道や母の話から言葉では聞いていたが、これが異形と化した患者の姿か、と。実際に見たのは初めての事だった。
しかし館長さんは、艷やかな赤銅色の髪をたゆらせ、肌は塩のように白く、目は物憂げに足元を見つめていて、その姿は彫刻作品のように美しくもあった。その館長さんを豪腕で捩じ伏せ、ただ窓越しの陽光に向かって逞しく成長しようとする花。
私は声に出さず、笑ったかもしれない。
何故だかわからないけれど、他人の情事を見てしまったような気持ち悪さと昂りが私の中に同居し、目を奪われてしまっていた。
この時、私ははっきりと自覚した。黒蝕花に焦がれ、死を希求した事を。
「紗菜、いまの世の中、生きる価値はあると思う?」
私は館長さんと黒蝕花の融合体から目を離さぬまま、そう呟いてしまった。不用意な発言であった。紗菜にとってはもう私しか頼れる人はいなかったというのに。
紗菜は命綱を断たれると思ったのか、しがみつくように私に抱きつき、
「わたしはお姉ちゃんがいればそれでいい。それだけで生きる価値はあるよ」
と悲愴な表情で言った。
「そう?」と私はできるだけ優しい視線で返したつもりだったけれど、紗菜は表情を変えぬまま、私の真意を覗き込むように、顔色を伺うのだった。




