9 別
さてこのあとどうしたものかとかんがえがまとまらぬまま図書館の外に出ると、御空色の小型車の傍に立つ汐織さんの姿が在った。
あ、汐織さんだ、と私が思った時には紗菜が声を掛ける。
「汐織さん、お母さんが」
「うん。知ってる。さっき見た……」
汐織さんは、成人したばかりと思えぬほど大人びた容姿なのに話し方は舌足らずで、声だけならば私より幼く聞こえるのではないかと思う。
「母を迎えに来たんだけどね、遅かったみたい」
そう言って寂しげに図書館を見上げる。お母様と同じ赤銅色の髪が、湖から吹き寄せる湿った強い風に巻き上げられる。
「一緒に逃げようよ、とは言ったんだよ。でも母は、自分が建てたお気に入りの家と、自分が集めたたくさんの蔵書とともに留まることを選んだ」
汐織さんの右頬を細い涙が伝う。私は何と言うべきかわからず、次の言葉を待つしかなかった。
「もうこの町に人はいない。あなたたちが助かったのは奇跡だと思う。いつまた虻の大群が来るかわからないから、」
「虻の大群?」と私は思わず聞き返す。汐織さんはひと呼吸置き、
「ほら、見て」
と指し示した水溜りには、虻の死骸が三匹ほど浮いていた。つられて周囲も見回してみると、あちらこちらに虻の死骸が転がっている。
「この町は虻の大群に襲われたんだよ。そう報道されてる。私は……母の遺体を確認しに来たんだ」
「汐織さんはどこに居たんですか?」
「四號基に部屋を借りてる。来週には国外へ出るつもり……」
そう言ってやはり寂しげに肩をすくめる。
さすが汐織さん。それで金を集めていたのですね、と私はひとり合点をする――が、そんな事はいまはどうでもよく、頭の中を仕切り直そうとしたところで
「あなたたちももうこの町には住めないでしょ? まずは身体をきれいに洗って、ゆっくり考えてみればいいと思う」
と言って、私たちの顔から少し目線を下げた。地下室に篭もっていたおよそ十一日、身体は濡れタオルで拭くぐらいだったけれど、見てわかるほど汚れているだろうか……と私も身体を見下ろしてみるものの、もはや自分ではよくわからない。
「乗って」
汐織さんはそう言い、後部座席のドアを開けてくれる。
私たちは促されるまま車に乗った。
「二號基の様子をひと通り見て、帰ろうと思ったところでふたりが図書館へ入っていくのを見たものだから」
と言いながら窓全開で走らせる車に髪は乱れ声もかき消されるのだけれど、そうしなければならないほど臭っているのだろうなと思いつつ、それでもこうして手を差し伸べてくれた事に心の底から感謝した。
温かいシャワーを浴び、心身ともにさっぱりしたところでさらに温かいシチューを戴く。具だくさんで、大きく切られた具材はとても柔らかく、私も料理をしなくはないから、これがどれほど丁寧に作られたものかがよくわかる。
美人で、聡明で、料理も得意だし、何でもできてしまう。羨ましいものだ、と思う。
天は一人に二物も三物も与えるものだ。手が届かなすぎて張り合おうとも思わない。むしろ最初から挫かれている。
そんな事をぼんやりと思いながらシチューを頬張っている隣で、紗菜は何か楽しそうに汐織さんとお話をしていた。久しぶりに明るい顔を見た気がする。
私はふたりの会話に適当に相槌を打ちながらも、そういえばちょっと前に汐織さんの事を悪く言っていなかったか……?と思い出し、横目でちらりと様子を伺ってみたものの特に気づく気配はなく、現金なものだなと思う。が、紗菜の方が友達が多かったし、色んな人と仲良くやっていたりもしたから、これが世を渡る術か……と思い直したりもする。
そんなこんなで、ここ数日間まともに眠れていなかった事もあり、紗菜は爆睡していた。私も紗菜が眠った事はわかったけどその後の記憶がないので、きっと同じだっただろうと思う。
翌日の午後、汐織さんは「時間がないから」と言って昼食を片付けた後の食卓に私を呼び、真剣な顔で話を始めた。紗菜はまだ疲れが取れないようで、昼寝の真っ只中だった。
「七號基から飛行機の発着がいくつかあるのだけど、私はネイヴリッジを経由してノーウセパヒアへ行こうと思ってる」
「ノーウセ……」と復唱しようとして途中でわからなくなる。汐織さんは軽く頷き、既に纏めてある荷物の中から地図を取り出して広げた。そして細い指で示してくれる。聞いた事のない国だった。そう遠くはないけれど、知らない小さな国。
「現地の古い言葉で『円満な箱庭』を意味するらしくてね、その言葉通り?かはわからないけれど不争を謳っていて、入国の時に自分のありとあらゆる情報、遺伝子情報まで提出しないといけないのだけど、それを元に自分に最適な町に振り分けてくれる。だから町の中には最初から、争いになるほど合わないという人は居ない。そして町の人々に対して少しずつ家族のような感情が芽生えるそうで、自然と助け合えるようになるの。定期的に再評価もされるから、自分も周りも変わってきても、今の自分により合う町に転換されるし――」と汐織さんは引き続き丁寧に説明を尽くしてくれる。それは聞いた事のない仕組みで素晴らしい国だと思ったのだけれど、家族、という言葉に引っ掛かり、それ以降の説明がうまく頭に入ってこない。汐織さんはそんな事知る由もなく、先を続けている。
「そんな仕組みで動いているから、入国費用や税金が高いの。だから兎に角お金を用意しないといけないのだけど、お父様の遺産もあるだろうから行けないことはないと思って、手続きの仕方を教えておこうかと――」
遺産。その言葉が追撃となり、急に心が冷めていくのを感じた。そう、父は死んだ。私の大好きだった父さんは、金に代わってしまった。
束の間、温かな時間を過ごし見失いかけていたが、私は自分の思考を取り戻した。そして思う。
その国は確かに今は魅力的に映る。しかしどんなに良い仕組みを作ろうとも人間が運用していては意味がない。いずれ必ず腐敗する。運用している側が特権を得たと錯覚し、意の儘に操ろうとするからだ。それは「歴史が証明している」。この言葉すら使い古され今さら大して響かないほどなのに、それでも逃れようがなく繰り返されてしまう。もしかすると私が生きている間にはそんな事にはならないのかもしれない。でも端から期待したくもない。そう思ってしまうくらいには私は失望していた。
どうやら私はしばらく沈黙していたようで、心配そうに見つめる汐織さんの視線に気づき、改まって口を開いた。
「とても現実的なお話をありがとうございます。汐織さんには本当に感謝しています。ですが、私はここに残ります。母がこの地におりますので……」
と、ここで一呼吸置く。
「紗菜を連れて行ってやってもらえませんか。私が相続した分の遺産は汐織さんにお預けします。紗菜が成人するまで、どうか、面倒を、みてやってください……」
思いがけず最後の方は泣いてしまった。泣くつもりなんて全然なかったのに。
汐織さんはしばらく黙っていた。私ももう話す事は無かった。
「本当にそれでいいの?」
汐織さんは念押ししてきた。どこかから借りてきた言葉でありきたりな説教をするのではなく、私の意志をまず聞いてくれた事に感謝をする。そう、図書館に残ると言ったお母様の意志も尊重したぐらいなのだから、汐織さんにとっては普通の事なのかもしれない。
私は涙が落ちるほどに深く頷いた。
汐織さんはまたしばらく黙った後、「一晩考えさせてほしい」と態度を保留した。
慎重な人で助かった、と思った。
そのあと私は密かに一筆したためて拇印を押し、汐織さんの荷物の中に忍ばせると、紗菜の隣でたっぷりと昼寝をしておいた。
そして夜は寝たふりをして一睡もせず、翌早朝、ふたりが眠っている間に静かに部屋を出た。
ここから家までは多分、二時間弱。そう辛い距離じゃない。
私はてくてくと歩き出した。
「本当にやりたい事があるのなら、誰にも言わずにやってしまうことだ」
そう言った父の教えを胸に、四號基の街を足早に抜け、吸い込まれそうに蒼黒い湖面の景色に恐怖しながら三號基へ続く片側二車線の鉄橋の歩道を孤独に渡る。やがて朝日が顔を出し、町並みは朱く照らされる。上空に見える黒い鳥は烏だろうか。明るくなると湖面の表情は一気に変わり、きらきらと輝く照り返しに心洗われながら二號基への鉄橋を渡った。
家に戻り、地下室へ行き、母が買った注射器のセットから一本を取り出す。まだ八本も残っている。
そのまま今度は図書館へ行き、ちょっと失礼して館長さんから血液なのか花液なのか今となってはわからない体液を採取した。これで準備は整った。
さて、どこにしようか。
きれいな湖面が見える場所がいい。
そうだ、よく父と紗菜と三人で遊んだ、湖岸近くの廃工場へ行こう。
私は再びてくてくと歩き出す。
あの頃と比べて湖面はだいぶ上昇し、湖へと降りていけるよう階段状に造られた湖岸には、たくさんの人たちが水に浸されて眠っていた。皆、思い思いの部位に花を咲かせている。
あぁ、町のみんなはここに居たのね。どおりで静かだったわけだ。でも館長さんほど、特異な形に育っている人はいない……。異常成長してその場に根を張る個体と、小さく咲いて水辺へ移動する個体との違いは何なのだろう。
そう思いながら外湖の彼方に咲く、塔のように巨大化した一輪の黒蝕花を見つめる。
この三日間は奇跡的によく晴れ、空気も澄んで遠くまで見通せた。
巨大な黒蝕花の周りには、線香の煙のように細くて黒い筋が、風に乗って天女の羽衣のように揺蕩っている。
目を凝らして見るとそれは煙ではなく黒い小さな粒の集合で、まるで虫の群れのよう――そうか、きっと虻の群れだと思った。あの群れがこの町を襲ったのだ。そう理解する。
私は背後へ向き直り、鉄骨や配管が複雑化している奥の方へと入り込んで行った。
「あまり奥へは行くなよ」と父にきつく言われた声が蘇る。
小中学生の頃、この敷地内でよく縄跳びをしたり、三人でバレーボールのパス回しをしたりして遊んだものだった。工場が現役の時は大型車両がたくさん通ったのだろう、車道がとても広くて走り回るだけでも開放感があったし、湖から吹く風も心地よかった。
遊びに疲れて地面に座り、普段見ないような大味の建造物を見上げるのも、なんだか自分が小人になったようで非現実的で、大好きだった。そうして無意識に配管を辿っていると父から叱られたのだ。危険だ、と。
懐かしい。そう思いながらずんずんと奥へ入り、落ち着く場所を見つける。狭く囲まれながらも真上に晴天が覗ける場所に腰を下ろした。そして左腕の親指を中に入れて握り、浮き出た血管を右手の薬指で触れ、静脈の位置を確かめる。そのままゆっくりと注射針を刺し、プランジャーを押した。
さあこれで私も花になれる。
もう何が起きても怒ったり憎んだり悲しんだりしなくていい。自分の感情に疲弊しなくて済むのだ。
感情も思考も手放し、この弱い心身で混沌としたよく解らない世界を生き抜かなければならない負担から解放される。
私はとても満たされた気持ちになり、一睡もしていない事と歩き疲れた事もあって、このあとはすとんと眠りに落ちた。




