7 罪
その日、私は昼過ぎに家を出ました。昼食後で、十三時頃だったと思います。
娘たちには夕飯までには戻ると伝え、車で事件現場へ向かいました。立入禁止である事は勿論わかっていました。
けれど私はこの一ヶ月間、全然、全く心の整理がつかなかった。考えれば考えるほど理不尽で復讐心が募るばかり。
その日も何か目的があって行ったわけじゃない。何かしらの救いを求めて、もしくは自分の心と何かしらの決着をつけたくて、向かっただけでした……いえ、ただ車を走らせただけ……そう、夫は生前、通勤中の車の中で、度々私に説教しました。
「正攻法で立ち向かおうとするな。正攻法ほど読み易く詰まし易い道はない」「相手の裏をかけ。必ず勝てる策を立案するんだ」「訴えるだけでは何も変わらない。行動し実利を取れ」「殺すつもりで思考しろ。命は奪った者勝ちだからな」などと好き勝手に講釈を垂れました。
でもそんな事を言われても私は医者なの。人の命を救う事を使命としているし生き甲斐を感じている。
だから反論した。半ば喧嘩気味に話し合った。険悪になることもあった。
彼は私を心配して、私のこれまでの価値観を変えるべく過激な言葉を用いたのだと思いますが、当然、彼の価値観そのままに私が行動できるわけではない。
だから、私が考えたのは、患者の血液を盗んでおく事でした。
医師を攻撃する連中の思考は全くもって理解不能で、奴らも自分が感染すれば必ず狼狽え、医者にかかるに決まっているのに、まるでわかっていない、と思いました。しかも花の撲滅を掲げて患者を殺すなんて発想も愚の骨頂で、人命を奪う事が許されないのは勿論のこと、花の特性を備えた患者を傷つければ防衛反応が起こり、人知れず咲いている花にまで伝播して被害はますます拡大します。この特性は何度も報道されているはずです。
自分には害が及ばないとでも思い込んでいるのか、それとも邪悪な魔王のように人々が荒れ狂う混沌を望んでいるのか、もしくはそんな事態を想像できないくらい底抜けに愚かなのか。
人の善意や良心にただ乗りし、相手の自制心ゆえに反撃が無いのをいいことに、人を追い詰め潰れてゆく様を眺める事に愉悦を感じる悪魔のような連中。奴らこそ大人しい花になるべきではないのか、そう思ったのは事実です。
――と、こんな経緯や動機を馬鹿正直に話している時点で私はまだ甘えている、と彼なら言うのでしょうね。まだ私は、正直でいれば誰かが救ってくれると信じているの。
でもね、そんな事を豪語していたくせに死んだのは彼だった。この現実を私はどう受け止めればいいのでしょう。
彼も自ら警備を買って出たくらいなのだから何かしらの武器は持っていたはずだった。
相手が子供だったから無意識に舐めたのか、まさか銃を持っているとは思わなかったのか――自分は射撃を趣味にしているくせに?そう、彼はそういうところがあったのよ。 人には偉そうに言うくせに自分の事は疎かになる節があるというかどこか抜けているというか……いえ、愚痴が過ぎました。爆弾なんて誰も予想できなかったからでしょうね。
廃墟と化した病院一階の待合に立ち入り、煤で汚れた壁や天井を見上げました。院内の太い柱に触れると指先が真黒になり、事件直後の記憶と未だ残る火災臭とが混じり合って噎びそうになりましたが、その時、入口の方から金属製のバケツが擦れるような音が微かに聞こえました。思わず柱の陰に身を隠すと、どうやら子供であろう軽い足音が瓦礫を踏みしめるように近づいてきて、それが、ある場所で止まり、床を搔く音に変わりました。
何をしているのだろう、と息を潜めて覗き見ると、まだ十歳に満たないであろう男の子が、園芸用のバケツとスコップを手に持ち、床に積もった黒い灰を掻き集めていました。その場所は建物の中で最も黒く変色した部分、つまり、爆源でした。
男の子は灰を何度か掬ってバケツに入れ、また静かに入口から出て行ったので後をつけると、辿り着いたのは錆びれた廃倉庫でした。トタンの屋根には大きな穴が空き、そこから庫内へ日光がたっぷりと射し込んでいて、その日射しを目一杯浴びて床に寝そべる、一人の女性が居ました。うつ伏せで、助けを求めるかように花を咲かせた右腕を前方へ伸ばし、下半身は屋根から降り込んだ豪雨によってできた大きな水溜りに溶け込んでいて、静脈血の色をした細い根が水溜りの隅々にまで張り巡らされていました。それはまるで、池に増殖した赤黒い藻に足を取られて引き摺り込まれそうになっているような、もしくは裾の長い赤黒いレース編みのドレスを纏って微睡む貴婦人のようにも見える姿で静止していました。
手遅れの患者だ、と私は思いました。
男の子はその女性の前に座り、しくしくと泣き始めました。女性は私と同年代に見えましたから、もしかして母親だろうか、と状況の把握に努めていると、倉庫の奥から、
「こ~んな所に秘密基地があったんだね!」
と鼻につく甘ったるい声とともに物品棚の陰から姿を現したのは、今度は娘と同年代に見える少女でした。
少女は右手に斧を持ち、
「花は敵だって教えなかったっけ?」
と軽やかな足取りで男の子に近づいていきました。男の子は顔も身体も震わせ、明らかに慄いていました。
「君のお兄さんは立派だったよ?どうして君はできないの?」
「違う、兄ちゃんは――!」と言うのが精一杯で、その子は泣きじゃくり、息を引き攣らせていました。
少女は「ははっ」と嗤い、斧をその子に握らせながら女性の手首を指差して
「ほら、まず練習だよ。斧は重いからそんなに力は要らないよ?重力ってわかる?重さを利用して振り下ろすんだよ」
と少女が言い終わる頃には私は駆け出していました。
男の子から少女を引き剥がし、殴りつける代わりに私は、右太腿に固定していた注射器を取り出し、少女の右胸上部に突き刺しました。注射器の中には即効性の鎮静剤に患者の血液を混ぜた液体を入れていて、それは、私が護身用として携帯していたものでした。
少女の身体は勝手に脱力し、意識は残したまま膝から崩れ落ちてその場に仰向けに倒れました。目を見開く事しかできなくなった少女に向かって、
「これであなたも大人しい花になれるわ。助かりたければ梟護第二病院まで来なさい。私が責任をもって治療してやるよ」
そう吐き捨て、傷を負わせた少女も、少女を見るのと同じ目で私を見ている男の子も、手遅れとなった患者も放置して、私はその場を去りました。
翌日から私は、職場に復帰しました。
その少女が来院する可能性がありますからね。
□
「以上がお母様の供述です」
黒い手帳を見ながら、時湖さんはそう言った。
その日、確かに母は夕飯までに帰ってきて何事もなかったかのように過ごし、翌日から仕事に復帰した。同じグループの別の病院に配属になったというような話を聞いた気がする。そして職場復帰した七日後の今日、家に帰ってきたのは母ではなく、時湖さんであった。以前と同じく珈琲店の方へお通しし、いまこうして話を聞いている。
「母のやった事は罪になるのですか」
私は時湖さんと目を合わせぬまま、独り言ともとれる曖昧な抑揚で訊いた。純粋な疑問ではなかった。母が捕らえられた事へのせめてもの抗議のつもりだった。時湖さんもそれを察したのか、四秒ほどの沈黙を経て口を開く。
「まず、病院から鎮静剤を盗んでいます。患者の血液、つまり病原体も同様に。そしてそれを故意に他者に感染させている。医師の立場を悪用した凶器と手段です」
母がこうなった背景をこの人は知っているはずなのに、淡々と客観的事実を突きつける。不愉快極まりなかったが、ここで感情的になっては負けな気がしてきて、私は再び同じ口調で呟く。
「少女のやった事は罪になりますか」
今度は非難も兼ねた明確な質問であったため、早々に答えてくれる。
「まず、少年への脅迫。余罪もあるかもしれませんが、今は黒蝕病の患者であり、被害者でもあります。回復してから話を訊く事になるでしょう」
少女の方が被害者とは。
「歪んでる」
私は無意識にそう呟いていた。呟いてから我に返ったが、別段間違っているとも思わなかったので、言葉の勢いのままに睨みつけると
「そうね、歪んでいる」
とあっさりと認めた。少し哀しげな目をしたように見えたのは私の願望からくる錯覚だろうか。 時湖さんは続ける。
「でもね、これは私個人の判断ではない。私は法の下で動いている。法がそれを罪だというのなら罪でしかない。私は法に従い、逸脱した者を捕らえるのが仕事なのよ」
そんな法律、クソ喰らえですね、と言ってやろうかと思った。嘘。言えるわけがない。
瞬間的に爆発しそうになった怒りを鎮めるべく、私は息を吐き、やや天を仰いだ。そのおかげで悔し涙を零す事はなく、新鮮な空気を吸えて頭が冴えた気がする。
そうだ、私たちを護ってくれない法など守る価値はない。もはや自分の事は自分で解決するしかないのだ。その為には法をも犯そうじゃないか。そう思い至り、あぁそうか、と唐突に理解する。母もそう考え、捕らえられたのだ。母は逃げも隠れもせず、正々堂々と法の下で裁かれる事を選んだ。悪人にはなりきれなかったのだ。母はそういう人だ。
「お母様と面会しますか?」
面会は私には無意味に思えた。そんな事をしたところで罪が軽くなるわけじゃない。母も大人しく罪を償うつもりでいるはずだ。
私は隣に座る紗菜を見やり、
「紗菜はどうする?私は行かない」
そう言うと、時湖さんが僅かに眉を顰めたのがわかった。
その反応から私が読み取ったのは、人に訊いておきながら No と言われる可能性を軽視していたという事。どちらの可能性も等分に存在するはずなのに、一般的な価値観による無意識の思い込みが存在する。どんなに公正に見ているつもりでも、人間である以上、絶対に拭い去れない何かが存在し、そういう奴らが判断を下している。
そこから湧き起こった感情は、失望。
「……悪いけど紗菜……会いたければ……一人で行ってほしい…………」
私は堪えていた涙を流してしまっていた。
「お姉ちゃん……」と弱々しく返事をした紗菜の目も滲んでいた。それは私への共感なのか、時湖さんへの憎悪なのか、母の犯罪に対する哀しみなのか、理不尽な世の中に対する悔しさなのか、全然わからなかった。
もしかするとこんな不安定な私を心配したのか、本当はどう思ったのかわからないけれども、結局彼女も面会を断り、私の傍にいる事を選んだ。
後日知った事だが、父の死後、私たち一家が塞ぎ込んでいた一ヶ月の間に、問題の花――黒蝕花と正式に名づけられたこの花――は、我々人間という種の存続を脅かす侵略生物に指定され、徹底抗戦・排除する事が国の方針として宣言されていた。
そんな中、人命を扱う立場に在る者が侵略者側に加担するような行いをした母の罪は重く、花が蔓延する事態の収束が見通せない事から、期限を設けない、つまり無期の禁錮刑が言い渡された。
少女の方について。手遅れの患者はもはや人間ではなく生物的には花であると見做され、それは傷つけたとしても花でしかなく、黒蝕花の防衛反応を踏まえると駆除方法は適切ではなかったものの、未成年である事が考慮され、罪には問われなかった。




