6 死
これは病院の受付の女性が見た景色。彼女の証言から再現された事件の記録。
以前、待合の窓硝子が割られた際に、犯人を目撃したものの明確な特徴が言えなかったため、今度こそはしっかりと目に焼き付けようとした事が仇となり、彼女は失明してしまった。
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それは雷鳴轟く豪雨の日。あの時と同じく昏い正午。警備を兼ねて一階待合の椅子に座っていた私の父が、何かを察知して静かに立ち上がった。
そのまま正面入口に向かってゆっくりと歩き出したので彼女が目で追うと、入口の自動ドアが開き、あの時と同じく灰青色のレインコートを被った――けれどもわりと小柄な者がひとり、雨水を滴らせたまま俯いて入ってきた。明らかに不審な人物である。
父が対峙し、あくまで穏やかな口調で「院内ではレインコートはお脱ぎください」と告げると、その人物はコートの下から素早く右腕を出し、
「花を殺しに来た。人間を殺すつもりはない。人間は外へ出ろ」
と、変声期中と思われる不安定な声質で言った。顔をよく見るとまだ十二、三歳であろう少年である。右手には鉄色の小さな拳銃が握られていた。本物かどうかは判断できない。
父はゆっくりと両手を挙げて掌を相手に見せ、刺激しないように気を付けつつもやや声を低め、諭すように言う。
「此処に居るのは皆、人間だ。花など居ない」
「違う。病人は花だ。一度花に侵された奴は、もう元の人間には戻らない。血が穢れるんだよ」
そう言って明らかに銃口を父の方へ向けた。後ろで見ていた彼女は固唾を呑んだが、父はどういうわけかふっと肩の力を抜き、親戚の子にでも話すように柔らかな感嘆の声を上げる。
「お、それはREM社の護身拳銃じゃないか。しかも銃身に装飾が入っている。百年近く前の物だろう?俺はそこの狙撃銃が好きでな、まずフォルムが美しい」
何、おっさん、狙撃手なの?と、少年が思ったかどうかは定かではない。が、怪訝な顔をしたので、少しでも気を引いた事は間違いなかった。
少年の後ろには、恐らく昼休憩に行こうとしたのであろう若い男性医師が入口付近の細い通路から出てきていて、出窓に飾ってあった梟の置物を手に取り、少年に殴りかかろうとしている。少年はフードを被ったままであったせいで、視界が狭くなっていたようだ。
男性医師は、さすがに子供相手に頭を殴るわけにはいかず、右肩に振り下ろし、少年が呻いた瞬間に父が間合いを詰め、右腕を捻って銃を落とさせた。そのまま床へ捩じ伏せる。
子供相手に大の男二人で掛かったのだから難なく制圧できると思われたところで、
「やめろおおお゙ぉぁうぉおお゙お゙おおお!!」
と不可解なほど悲愴な声で慟哭するのであった。
一瞬、その場に居た三人ともが怯むほど、言葉では言い表せない何か不穏な気配を直感的に察知したが、直後、彼女の視界は青白い閃光で溢れかえり、僅かに遅れて呼吸できぬほどの熱風が殴りかかってきて後ろの壁に背中を打ち付けた。地鳴りのような神鳴りのようなこの世の終わりのような轟音が膨れ上がって頭の中を木霊し、視覚も聴覚も奪われて、自分がどうなったのかわからぬまま意識が吹き飛んだ。
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この日、両親は日付が変わっても帰ってこなかった。
急患が入ったのか、新たな病態が発見されたのか、それともまた莫迦な輩が嫌がらせを仕掛けてきたのか……などと考えながら、私は紗菜とふたり、リビングで待っていた。時々「遅いね」と呟きながら。
午前二時を過ぎたあたりだろうか。カチャリと静かにドアが開く音がしたので紗菜とふたりで出迎えに行くと、別人のように灰色の顔をした母が、乱れた髪を押さえながら弱々しい足取りで入ってきた。そして目線だけを上げて、
「杏葉……」
と私の名前を呟くと、両腕を私の肩に回し、覆い被さるようにして私をきつく抱き締めるのだった。肋骨が軋むほどに強く、皮膚から血が噴き出すのではないかと思ったほどに爪を立て、そして、子供のように声を上げて泣き始めたのだった。母のこんな姿は見た事がなかった。
私は驚きのあまり硬直し、母の体重を支えられなくなってその場に座り込んだ。母も一緒に崩れ落ちる。
母の後ろ、ドアの外には黒い制帽の女が立っていた。赤い口紅だったから、あぁ、この人が母の言っていた警官か、と意外にも冷静にそんな事を思う。
母の肩越しにその人と目が合った。言葉にはならなかったが、私の戸惑いは伝わったのだろう。
「今日はもう遅いですから、日を改めてご説明に上がります。お母様を大切に」
その人は思いのほか慈悲深い口調でそう言い、制帽の鍔を右手でつまみ、軽く一礼して去った。想像していたほどには冷たい人ではないのかもしれない。
私は母を抱えたままどうするべきなのかわからなくなってしまっていて、ふと傍に突っ立っていた紗菜を見た。
紗菜は何故か「うそ……」と呟いて、大粒の涙を浮かべている。
私は鈍感だった。
紗菜のその反応を見て、ようやく動悸がし始める。
父は?父さんはどうしたの?
紗菜もその場に座り込み、両手で目を覆って泣き始めた。
待って、どうして泣くの?まだ何も判らないでしょう?こんな重大な事、そんなに早く結論付けていいものじゃないでしょう?そう叱責したかった。
だけど、何故だかわからないけれど、服越しに伝わる母の感触が、多足類の虫が肌を這うように気持ち悪く感じ始めて、体温が急激に下がっていく感じがして、身体が勝手に震え始めた。
母を振り解き、真暗な部屋で耳を塞いで、独りになってしまいたかった。
警官は、北条 時湖と名乗った。すっかり憔悴しきった翌日の夕刻の事だったので頭はぼんやりしていたけれど、警察手帳には、今とは見違えるほどに清楚な女性が写っているなぁと思った事は記憶に残っている。
母は応対しようとしなかったので、私と紗菜で珈琲店の方のテーブル席へ案内すると、少し遅れて店の奥から母も入ってきた。
時湖さんは淡々と話し始める。
「亡くなったのは犯人の少年とお父様、男性医師の三人です。受付の女性は上半身に重度の火傷を負ったものの、一命は取り留めました。
凶器は爆弾です。破片ではなく衝撃波で殺傷するタイプの物でした。
爆発範囲は比較的狭く、一階の待合、受付は黒焦げになりましたが、他の医師や患者は無事で、裏側の出入口から全員退避できました。今は病棟のすべてが立ち入り禁止となり、患者は別の病院へ分かれて搬送され、引き続き治療を受けています。
少年は爆弾を身に付けていました。正確には、身に付けさせられていました。少年を使役した人間が居ます。そいつが遠隔で起爆したのです。恐らく、指示を完遂できなかった場合に」と、ここまで話したところで母が「もう聞きたくない」と声を荒げて遮り、「帰ってください」と追い出してしまった。
私はその成り行きを無感動に見届けた。
大人たちの成す事をただ傍観していた。
紗菜も隣に座っていたはずだけれど、どんな様子だったかは記憶に残っていない。
葬儀の時。私は父が入っているはずの柩に触れた。
この薄い板ひとつを挟んだ小さな空間が、いまこの場所と決して交わることのない別領域となっていて、時間や、世界が隔絶されている。父の肉体はここにあるはずなのに、存在がない。
本当は何も入っていないのではないか。だって何の気配も感じないのだから。音も光も吸い込む、小さなブラックホールでも入っているのでは……そんな馬鹿げた妄想に取り憑かれながら、私は柩の側面に手を触れた。このあたりに右腕が、ここには顔が、と上面の小窓まで指先で辿ってゆくと、
「遺体は見ない方がいい。原形を留めていないから」
と低く抑えた声で言われた。声の主を見ると葬儀屋の人間だろう、父と同じくらいの年代の、整髪料で髪を固めた喪服姿の男性が、私を見下ろしていた。
その事務的な言葉の選択に、反射的に怒りが湧く。
見ない方がいい?原形を留めていない?よくもそんな無礼な事を言ってくれる、と。
父の事を何も知らないくせに、いや、何も知らないからこそ、そんな軽々しく無神経な事が言えるんだろう。自分の最愛の人でも同じ事が言えるのかよこの――と罵ってやりたくなったけれども、違う、本当はわかってる。私を気遣っての事。父の今の姿を見れば、余計に私が傷つくからなのだと。
母は事件の直後に父の姿を見たはずだった。外科医の母だ。無残な父の姿を見てどう思った事だろう。助からない事が明白な父の軀を見て、どんな感情を抱いたのだろう。
物になってしまった父。それが嫌だった。受け入れられなかった。でも私には何もできなくて、虚しくて、悔しくなって、私はその場に泣き崩れた。それこそ、聞き分けのない幼子のように。
どのくらい泣き喚いたのかわからない。
周りの人を困らせたかもしれない。
そんな私を、母と紗菜はどう見ていただろう。それすらもわからなかった。
母はしばらく虚ろになった。地下の射撃訓練室に一日中篭る事もあった。
そこには父の空気が残っていた。丁寧に整備された狙撃銃や、練習台となった穴の開いた的、趣味で集めていた携行食なんかも保管してあった。
柩なんかよりもよっぽど父の気配を感じられた。父の意志の痕跡がそこかしこに遺っていた。
そんな部屋に母は一日中、毎日のように篭り、何を思ったのだろう。
この頃から私は、母の考えている事がわからなくなってきていた気がする。それは、皆目見当がつかないという意味ではなく、様々な想いの中から、どれを考えている可能性が最も高そうかが判らなくなった、という意味で。勿論、他者の考えがわかるなどと烏滸がましい事は思っていないけれども、それでも母はどちらかと言うと喜怒哀楽を素直に出す人だったから、なんとなくの安心感があったのだ。それが失われていった。
紗菜は強かった。何もできなくなった母や私のために、毎日、黙々と食事を作り続けた。温かい野菜スープや雑穀のクッキーなど、料理やお菓子作りが好きで得意だった紗菜は、不出来な姉の代わりに、喉を通りやすく栄養の摂れるものをと考え、食事の面から母を支えた。情けない姉も途中から手伝った。
そうして少しだけ、ほんの少しだけ心身ともに回復の兆しが見え始めたある清々しい晴天の日、薄手のロングコートを羽織り、身なりを整えた母が、
「出掛ける」
と、驚くほど無愛想に私に言った。
「どこへ?」
とやや焦って訊くと、母は私から目を逸らし、軽く息を吐いたあと、
「夕飯までには戻る」
と、凍てつくような目で私を制した。
これ以上を話すつもりはない、と目が告げている。
母のそんな目は見た事がなかった。




