5 人
街の人々は虫の羽音を強烈に恐れ、外出を避けるようになっていった。
不運にも虻に咬まれてしまった人は、既に報道されている、異形と化した患者の様子から、恐怖のあまり発狂しそうになり、医師たちが「現段階であれば必ず治ります」と丁寧に説明はするものの、「お前に何がわかる」と暴言を吐いたり悲嘆に暮れる人もいた。
それに治療と言っても薬があるわけではなく、またすぐに出来るわけもなく、当面は身体から蕾が出現するまで待ってから枯らしたのち、外科手術で摘出するという方法しかとれなかった。
蕾が姿を見せるまでの潜伏期間はおよそ四日。その間、虻を誘引する物質は血中を循環して毛細血管まで行き渡り、人には感知できない香りが身体から発せられているようであったため、虻による更なる吸血・刺咬被害と他者への感染を防ぐために患者は隔離せざるを得ず、ゆえに入院期間は一週間に及ぶ事もあった。
そのうえ厄介な事に、どうやら後遺症とみられる症状が一部の人には発症した。
体内から花の痕跡はきれいに消えたにもかかわらず、晴天の日に日光に当たると、そのまま空を見上げて何時間でもぼんやりと佇んでしまうのである。
雨季の長いこの国で晴天はそう多くはないけれども、一旦発症すると、その間は周りで何が起きようと、さらに言えば自身に何が起きようとも、動物的な反応を見せないのであった。つまり、花になりきっている。
すると、人間というのは悪い生き物で、そういう無抵抗な人を面白がって引き摺りまわし、嬲り殺しにする未成年の集団が現れた。花の撲滅を謳って。
そんな事件が公になると、報道番組なんかでは「無知で未熟な若者へは再教育が必要だ」とか「この未曾有の事態の中で彼彼女らの精神状態を理解する必要がある」などと、安全圏から机上の空論をぶち撒ける専門家が現れ、俯瞰者気取りの者たちによって迫真の演技で議論が交わされたが、そこに被害者の存在はなかった。
それは文字通り、被害者はもうこの世には存在しないから。この世界を構成する一因ではなくなってしまったから。
世界は今を生きる人たちの手によって、今後も生き続ける人たちのためにつくられる。無くなったもの、過ぎ去ったものを切り捨て、世界は、不可逆な時間は、冷酷に、残忍に、進んでゆく――それが、とても虚しかった。
何の落ち度もなく亡くなった被害者の事を思うと、私は怒りに震えた。
私が勝手に推察するに、奴らは単に、野蛮だっただけの事だ。
平時は後天的に教育された道徳や法律で抑えていたものを、昨今の不安定な情勢の中でそれらの均衡が崩れ、もっともらしい理由をつけて獣臭い欲望を解放したのだ。鎖を外された野犬のように。
そこにはきっと、他者を甚振る快感と、優位な己への陶酔があるのだろう――なんて卑劣なんだ!と怒り狂いそうになったところで、いや、ちょっと待てよ、と別の考察がよぎる。
いま野犬と言ったけれども、人間も動物だ。動物はそもそも暴力の世界で生きている。腕っぷしの強い奴が生き残る、弱肉強食の世界。
人間はかろうじて法で抑えつけているけれども、本来は動物の本能なのだから、時々逸脱する人や場合があるのは仕方のない事なのかな……
歴史を見ても戦いや争いばかり。
人間はどうして殺し合いをやめられないのだろう。
人間はどうして、同種同士でも殺し合うのだろう。
種としての繁栄を目指すのなら同種同士で殺し合っている場合ではないはずなのに、生物として欠陥があるとすら思える……この疑問は図書館へ行けば、何か良い資料が見つかるだろうか……今度、館長さんの元へ伺ってみようかな……と、この頃は私自身も、安全圏から物を考えていた。
そんな中、母が勤務する病院に火炎瓶を模した不審物が投げ込まれる事件が発生する。
驟雨降りしきる昏い正午。お昼休みで人が少なくなった一階待合の大きな窓に、それは投げ込まれた。
硝子が大きな音を立てて割れたが幸い付近に人はおらず、中身の液体も引火する事はなかった。
受付の女性が犯人と思しき人物の後姿を見たものの、雨に烟る街並みに溶け込むような灰青色のレインコートを被った者、という以外に明確な特徴は言えず、性別も年齢も判らなかった。
警察に通報すると、人員の手配に少し時間がかかると言われ、小一時間ほどしてようやく到着した警察官は、目を疑うような赤い口紅の女だった。漆黒の制服に身を包み、足元もブーツで締め上げたその姿は、なんだか前時代の軍人を彷彿とさせる。几帳面に切り揃えられたボブヘアと、目深に被った制帽から覗く切れ長の目は怜悧な印象を湛え、その人は現場を一通り見たあと、割れた瓶の傍に屈んで、
「こんな雨の日に火炎瓶とは……」
と呟いた。そのあとにも何か続けていたようだったけれど声が小さかったので、聞き返そうかと周りが思ったところで、その人はすくっと立ち上がり、感情を削ぎ落とした声音で言った。
「瓶の中身は揮発性の低い液体ですから、計画性や強い攻撃性までは見られません。無知な愚か者の悪戯でしょう、悪質ではあるけれど。近頃、医者や病院に不満を募らせた連中による嫌がらせが増えていますから、十分に気をつけてください」
そう言い放ち、次の現場が控えているとでも言いたげに、さらりと去っていった。
そんな出来事を、この日の夕食時、母が昏い顔をして、父と私と妹の前で話した。
犯人を追わずに被害を受けた側に注意を促す――なんて酷い警官なんだ、と私は思った。
警察は何もしてくれない。否、何かが起きなければ動いてはくれない。
病院が燃えなければ、死者が出なければ捜査しないのか、と私は再び怒りに燃えたところで、やはり別の思考がよぎる。
本当に悪いのは犯人なのに、どうして私は警察を責めたのだろう。
本当は花が原因なのに、医者を責める犯人と同じ思考ではないか。
そう思い、私は心の中で自嘲する。この思考を発言する前に自分で気づけただけマシだったと思いたい。
そんな思考に私が囚われていると、目線を落としたまま黙って聞いていた父が言った。
「わかった。明日からは俺も行く」
一瞬、意図が掴めず、皆が父の顔を見たけれども、父はそれ以上を言葉にする事はなく、私たち三人の視線を無視して食べ終えた食器をシンクへ持っていった。
翌日から父は珈琲店に休業中の札をかけ、車通勤していた母の運転役を買って出た。母は「別に大丈夫だから」と遠慮したけれど、父は聞かなかった。
いま思えば、父はすでに予見していたのかもしれない。
秩序が少しずつ崩壊していく事を。
法が少しずつ機能しなくなる事を。
使命感と責任感が強い母は、心を痛めながらも自らは道を外さない、正々堂々と王道を突き進むタイプだったから、それが非常時にはかえって危うい事を、父は見抜いていたのかもしれない。
出発前、父は靴を履きながら肩越しに私を見て、
「困った事があれば館長さんを頼りなさい。あの人ならきっと助言をくれるはずだから」
と言った。かつて引き篭もっていた父に助言をくれた館長さん。父が館長さんを信頼している事はよく知っていたので、私はしっかりと頷き、
「わかった。いってらっしゃい」
と紗菜と二人で見送った。
そうして母の勤務先へ父も同行するという日々が始まった。父は病院では私服警備員のような役割を買って出たのだという。他者に怒るだけでは何にもならない事を父は知っていたのだ。だから実効力のある行動に出た。
二号基に位置するこの家から、五号基に在る母の勤務先までは車でおよそ三十分。巨大な人工地面の円盤間を繋ぐ鉄橋を三つ渡って辿り着く。その距離が長いのか短いのか私にはわからなかったけれど、母は運転が好きで気分転換になると言っていたから、平時はそれなりに楽しく通勤していたのだと思う。
二人は車内でどんな話をしたのだろうか。
人出が減り、閑散としてゆく街路に車を走らせながら。
荒廃し、徐々に殺伐としてゆく街並みを見届けながら。
人目が減るとどういうわけか犯罪は増えるらしく、一体どれだけの人が潜在的に法を煩わしく思っていたのかと驚くほどの数字が炙り出された。
その空気感に呑まれて人々の犯罪に対する閾値も下がり、この現状を「仕方ない」と諦める風潮まで醸成された。少々殴られても盗られても、どうせ警察も手一杯で捕まえられないのだからと見逃してしまう。他者がそんな目に遭っていても、運が悪かったのだとして助けもしない。横目で見て通り過ぎる。
それらの出来事を報道で知る度に、これが人間の本当の姿か、と私は失望しつつあった。
都市部の治安悪化の煽りを受け、私たちの通っていた学校も再開未定の休校になった。
家で自主学習と言われても鬱屈するだけなので、私は学校代わりに、父が尊敬する館長さんの図書館へ通った。
この近辺はまだ比較的平穏で、図書館へも歩いて十分ほど、そう危険ではないと思った。紗菜もついてきた。
教会も兼ねた建物だから内装も荘厳で、見ているだけで心が洗われる。
そんな静かな空気の中、生物学に関する棚の前で本を吟味していると、文学を探しに行ったはずの紗菜が隣にやってきて「お姉ちゃん」と囁いた。
「ん?」と本棚から目を外さぬまま声だけで訊くと、
「いま、汐織さんを見たんだけどさ……男の人たちに高値でおみくじを売ってたの。直筆のやつ」と、そんな事を言う。
汐織さん、とは館長さんの娘さんで、確か最近成人したはずの――私たちから見れば少しお姉さん、といった年齢の人だった。
顔見知りではあるけれど特に親しいわけでもなく、お母様譲りの赤毛が綺麗な人で、本を取り出す手つきから読む姿、髪を耳にかける所作のひとつひとつが丁寧だったから、私も見入ってしまうほどの魅力をお持ちなのだけれど、
「そんな商売を始めるなんて意外だな……」と呟くと、
「純真無垢なふりをして男心を弄んでいるんだよ」と紗菜は言う。
お、おぅ、そんな事を言うようになったか……と思わず絶句して紗菜を見つめると、
「……っていう歌詞の歌があるの。わたしの好きなロックバンドの……」と取り繕ってきた。
どんな歌を聴いてるんだ、と思わないでもなかったが、まぁ、何を聴こうが個人の自由なのでそこには立ち入らない事にして、
「事情はわからないけれど、きっと金が要るんだろうさ」
と、その場では適当な憶測を返した。
帰り際、紗菜がどうしても見てほしいというので――と言いつつ、私自身も興味が無いわけではなかったので――汐織さんが商売しているという図書館の裏側を遠目から覗いてみた。
するとそこには、目が覚めるような緋色の毛氈を掛けた長机の傍に座る汐織さんと、客とみられる男性が四人、時折談笑しながら商品を選んでいるのが見えた。値札には想像していたよりも二桁多い数字が書かれており、紗菜の言う通り驚くべき価格設定だったのだけれど、それは大した問題ではなかった。
毛氈の上に花が見えたのだ。薄桃や淡黄、白藍などの淡い色の可憐な花が編み込まれて小さな篭のような形を作っており、その中におみくじであろう丁寧に折りたたまれた白い紙が置かれている。
あんな繊細な花は野生では咲かない。きっと汐織さんが育てたのだろう。種を植えつけ、丁寧に水をやり、そして最も美しい瞬間に刈り取った。商品を美しく飾りつけるためだけに。
男どもも直筆のおみくじが目当てなだけであって、もっと言えば汐織さんとの交流が目当てなだけであって、家へ帰れば花など捨てるのだろう……いや、それは偏見か。仮に即刻、篭を丁寧に解いて液肥の入った水に浸けてくれたとしても、もって数日の命。近日中に死が確定している命だ。
それらを何の悪気もなく実行している――私は、全身の血の気が引く思いだった。自分の都合で命をつくり、自分の都合で剝奪する。命への冒涜ではないのか。人間とはなんて傲慢なんだ、と身体中が嫌悪感で満ち溢れる。私にはその場面は、腐臭漂う悪趣味極まりない戯れに見えた――いや、私の感覚が普通でない事は解っている。
「紗菜、あのひとは酷いね」
滲む脂汗を気取られぬようにしながら、私はそう言った。
「ね、お姉ちゃんもそう思うよね」
と、紗菜はどこか満足げな返事をした。
私の発言を紗菜が誤解している事はわかっていたけれども、いまの私にはそれを訂正する気力すらなく、ただ刻々としおれゆく花々から目が離せなかった。




