4 花
これはいまから二年前。蒸し暑い夏の出来事。
この国では比較的広い面積を誇る五号基の西側、湖岸近くに建てられた鉄屑処分場で、男の子がひとり遊んでいた。
そこにはまるで大きな玩具箱をひっくり返したように、車輪くらいに大きな歯車や、叩けば澄んだ音で鳴る鋼板、中に潜って身を隠せるほどに太い鉄管などが横たわっていて、まだ十歳のその子とっては秘密基地のような場所だった。本当は、危険で汚いから入ってはいけない、と誰彼から言われていた事も、余計に興味をそそった。
それらの瓦落多で埋め尽くされた中、塵や雨などが集まってできた小さな泥溜まりに、高さ三十センチほどに茎を伸ばした黒い花が数輪、咲いていた。
鉄製の人工地面で生きる我々にとって野生の花は珍しく、その子にとっては初めて見るものだったかもしれない。
花に惹かれたその子はなんの気なしに一輪を手折った。茎は硝子管のようにパキンと鋭く折れ、親指の付け根あたりに薄い切り傷をつけたけれども痛みはなく、特に気にも留めなかった。そのまま花を持ち帰り、色んな角度から眺めたあと、枕元に置いて一緒に眠った。
その四日後の早朝、虫の知らせで両親が目を覚ますと、男の子の姿は消えていた。枕元にはしおれた花だけが残っていた。
両親はすぐに近所を捜し、昼過ぎには警察の協力も得た甲斐あって、その日の夕刻に例の鉄屑処分場で倒れているのが見つかった。
呼吸も心音も問題なさそうだったけれど意識が戻らず、男の子は救急で病院へ搬送された。その搬送先が、私の母が外科医として勤務している病院だった。
母が見た限り、確かに血圧、心電図も正常範囲で、目立った外傷も無いといえば無かったのだけれど、ただ一点、右手の母指球のあたりに、鳩の卵ほどの大きさの突起があるのが奇妙であった。よく観察すると花の蕾のようでもある。
精密検査をするとその蕾らしき物の根元二割ほどが体内に埋まっており、茎のように見える器官と人体の血管が結合して、蕾は水の代わりに血液を吸い上げていた。こんな現象を見たのは誰にとっても初めての事であった。
この蕾と意識が戻らない事は関係があるのだろうか。これは摘出するべきなのだろうか。摘出するとしてそのリスクは――
誰もが何も判らなかったが、意識が無い事を除けば生命活動に支障は出ておらず、言うなれば眠っているに近しい状態であった。よって緊急性は高くなく、かつ未知の病態である事から慎重に対処すべきと医師たちは判断し、異例の事であるが、植物の生態に詳しい専門家も交えて処置が検討される事になった。
偶然、父の旧友であり、珈琲店に常連客として来てくれている――確か、竹中 重実という重厚なお名前の方――が植物の研究・蒐集を生業にしていて、いつもジュラルミンケースの中に謎の液体に浸した球根の瓶詰を入れていたり、枯れ葉や枯れ花弁を集めた自作の押し花集を珈琲のお供に二時間近くも眺めていたり、誰に追われる可能性があるのか上着のポケットには必ず天然の撒菱を入れていたりとなんだか変わった人だったから、母の脳にも焼きついていたに違いない。そうでなければ現状の医師たちの判断で処置が進められたはずだった。
男の子が病院に運び込まれてから竹中氏が来院するまで丸二日。その間、蕾はしおれてきていた。
医師である母と看護師、そして男の子の両親が見守る中、竹中氏はその蕾をじっくりふむふむと観察した後、
「まぁ、なぜ蕾が生えているのかの解明には時間がかかるけれども、しおれているのは患者はずっと室内におり、日光に当たれなかったからでしょう」
と飄々として答えた。
それならばとアルミシートと黒い布を右手に巻きつけて完全に遮光したところ、さらに二日後には蕾は咲く事なく枯れ、再度精密検査をしてみてもそれはまるで木の枝から枯れ葉が剥がれ落ちるように、茎が退化して血管から剥離していたため、皮膚を浅く切る程度で蕾を摘出する事が出来た。
摘出後、翌日にはその子の意識は回復し、両親は涙を流して喜んだ。
蕾は、研究の為に竹中氏が持ち帰った。
一方その頃、鉄屑処分場に咲いていた花は有害であるとされ、従業員によって刈り取られていた。
しかし、花にとってそれは虐殺だったであろう。この時はまだ知られていなかったが、花は断末魔をあげていた。人には聞こえない声で。その声は、別の場所に咲く、同種の花には届いていた。
その後、一週間と待たず、今度は離れた場所に住む子供二人が病院に運ばれてくる事になる。二人とも十二歳の男子で、一人は明け方に二階自室の窓から転落して骨折、もう一人は早朝に朦朧として歩いている所を、出勤途中の会社員に保護された。
二人とも上腕の外側に蕾が生えて意識も混濁しており、今回はそれに加えて蕾周辺の皮膚が炎症を起こしていた。虻に咬まれた事によるものである。
医師たちはその症状から、虻が媒介者となる感染症を連想していた。しかし今回媒介しているのは病原体ではなく植物である。植物の細胞が血管に植え付けられ、成長してやがて蕾をつくる。蕾ができると意識が混濁し、異常行動を起こす――それはまるで、蝸牛に寄生して行動を操る Leucochloridium のように。こんな植物が自然界に存在するのか……と、信じがたい気持ちで医師たちが治療にあたる中、ついに死者が発見される。
普段、誰も好んで立ち入る事のない汚水処理施設内、国土を囲む広大な湖へと流れる排水管の出口付近で、左の手首だけを湖面に出して人が一人沈んでいた。その手の甲には蕾ではなく、黒い花が開いていた。すぐ側には同種の花が数輪、同じように湖面に顔を出していた。
この一連の事象はその花の防衛反応であった事を、後に竹中氏は解明した。
植物も傷つけられると悲鳴を上げ、周りの健全な個体に注意喚起をするものがあるという。そして仲間の悲鳴を聞いた個体は防衛反応を起こす。防衛反応には幾つかのパターンが存在するが、例えば昆虫の食害を受けた場合、その昆虫の天敵となる別の虫を誘引する物質を出す事で、間接的に自身への被害を防ごうとするものがあるという。
この花は虻を誘引する香りを出し、自らの花液を吸わせて細胞を取り込ませ、興奮させて人間を襲わせる。しかもこの花の真に恐ろしいところは、敵を攻撃するのみならず、苗を植え付けて増殖するところだ。
「すべての花を一斉に駆除できないのならば、(そしてそんな事は不可能なのだから、)花を傷つけてはいけない、駆除するのは虻だけに留めるべきだ。そうでなければ防衛反応の連鎖は止まらない」
竹中氏はそう思い至ったがこれはある程度事例が集まってからの話で、そんな事など露ほども知らぬ汚水処理施設の人たちは、人間を苗床にする花など恐ろしくて耐えられなかったため、自分たちが害を被る前にさっさと駆除してしまっていた。
これにより、我々は更なる特異な事象を目の当たりにする事となる。
足の悪い一人暮らしのお年寄りが感染し自宅のベッドで亡くなっているのが発見されたが、その姿は、首根から掌を目一杯広げたくらいの花が、左胸には人の頭ほどもある大きな花が咲き、下腹部は妊婦よりも膨れ上がって脚も埋もれ、脚の代わりに太い木の幹のようなものが一本、ベッドから床へと直角に曲がって伸びた後、大量の蛇のような根が床を這っていた。しかし根は何も吸収できるものが無かったためか、そのまま枯れ果てていた。当然、人体はもう眠っているだけとは言えず、心臓も呼吸も止まっていた。手の施しようが無くなるほど成長するケースがあるという事である。
また、ラフな部屋着姿の女が早朝にふらふらと赤信号を渡り、車に跳ねられた事故が起きた。身体は勢いよく数十メートル吹っ飛んで地面に叩き付けられ、血塗れとなって転がったので、残念ながら助からないのでは……という思考が目撃者たちの脳を掠めたその時、不自然に捩れた体勢から右腕だけを高く掲げ、芋虫のように蠢き始めたのだという。その右手首には花が咲いていた。花が右腕を吊り上げ、人体を引き摺り、何処かへ行こうと足掻いているようにも見えた。
事故の通報を受けて救急隊も警察官も駆け付けたものの、あまりの不気味さに誰も手出しできず、失血死するまで見届けてしまったのだった。




