Ⅰ 6-12
Ⅰ-6 残り二話。
次回で一区切りです。
貴教はインタビューの中で語っている。
【だから当時……ライヴでいつも通りにやっていると「何か偉そう」とか「テレビと違う」とか言われたりね。で、どうしたらいいのかな、でも、そこで曲げちゃイカンだろうと思ってやると、お客さんはどんどん引くし(笑)。……でもね、谷山さん、関さんと同じようにライブにおいては舞台監督である新堀さんが僕を作りましたね。完全に。新堀さんとはとにかく話し合ったし。ツアー始まっているのに、降りる降りないみたいな話までいったこともあった。】
「j○ker」の時は新堀氏と「激しく衝突した」と言う。
【……でもやっぱり、その時に僕をね、ライヴを軸に活動出来るようなアーティストにするんだっていう強い意志がハッキリ新堀さんの中であって、賭けられたっていうか信じられたっていうか……あぁ何かこの人は命を張ってくれてるんだと。結局ね、その時自分の中で何が基準だったかっていったら、心中してくれる人かどうかみたいなところだったんだよね。谷山さんも関さんも心中してくれるんだろうなって思えたから……だからこそすごいぶつかったし。もうね、当時はやることなすこと怒られていた。】
“惨敗”を経て、其れを糧とし、ライヴパフォーマーとして確実にレベルアップ(T.M's.Rには最初から「良いライヴを魅せる」というコンセプトがあった)し、適応した上で、更に間に「KING of J○KER」を挟み、一つの完成形を見た上で挑んだ“リベンジマッチ”だったのである。
貴教は最後にこう結び、感謝を述べている。
【だから、たとえば来てくれた人がライブを見て、よかったとかすごくいいとか言ってもらえるのは、ひとえに新堀さんのおかげですね。】
そして翌年に迎えたのが「THE F○RCE」東○ドームツーデーズ――
しかし、貴教に気負いは無い。ミュージシャンによっては東○ドームは「夢だったとか」とか「辿り着きました」なのかもしれない。だけど貴教にあったのは「せっかくだから楽しみたいな」くらいのものであった。特に気負いも無く、晴れがましさも感じてはいなかった。無論、尖ったバンドみたいにエラソーにイキった態度をとっている訳でも無かった。というのも、「此処まで辿り着いた」と貴教が本当に感じたのは前年の「KING of J○KER」ファイナルのニッポン武道館であったのだ。此処を通過できたことで、歌う場所さえあるのならば、どこでもライヴが出来るという想いを確固たるものとしていた。ハコがSIGAのモ○ヤマ市民ホールであろうと東○ドームであろうと。だからこそ、来たるべき次期ツアー、“リベンジマッチ”に於ける勝利はこの時点で確定していたのだろう。
其れに貴教は考えてもいた。「若しも「j○ker」で回った小さな会場でやったライヴとはスタンスを変えなければ、ドームで出来ないというのであれば、T.M's.Revolutionがドームでライヴをやる意味など無い」と。小さな会場でもドームでも同じスタンスで出来る自信があるからこそドーム公演をやるのである。
…但し終わりとは、此れ迄(Ⅰ 1〜5)と違って断言はしていない…。




