Ⅰ 5-31
翼の無い天使、再び。
アンナの手の特徴的な形状に気が付いた。彼女の手、指と指との間には水掻きを連想させる程の膜が張っていたのだ。貴教にとって水掻きのある優しい手といえば…。
次の瞬間、貴教の涙腺は壊れた。外から握られていた両手をするりと抜くと、逆にその外側からぎゅっと強く握り返した。
「アウディ…」
そう、貴教はアンナの顔や声、全体の様子から“ミ○ドの娘”の面影を重ねて見ていだけでも結構ヤラれていたのに、両手の感触と形状から、更にあの命の恩人・(先代)アウラングゼーブとの日々までが思い起こされ、繋がり、感涙にむせてしまった。滂沱。自然、面は下に向く。
「昔のカノジョのことでも思い出したの? で、アウディ? 女の子の名前にしてはかわっているわね。なんか車みたいだけど、まあいいわ」
アンナはそのまま貴教を抱きしめた。暫らくそのままでいたが、貴教が面を起こすとアンナは熱い視線でじーっとこちらを見つめていた。
アンナの顔が、というよりも唇が此方に近付いてきた。
(キッス!)
ここで貴教は背後を取られた時のゴ○ゴ13の様な反応を示した。後ずさり、アンナと距離を取った。ゴ○ゴだったら問答無用で攻撃を加えているところではあるが。
貴教はアーティストであり、ミュージシャンであり、超一流売れっ子芸能人である。そんな立場をもう三十年も続けている。キスする直前という段になって、この三十年に渡って培われた対ハニートラップの回路が漸くという感はあるが発動したのである。実はアンナが貴教に「裁判の有利になる様に協力してあげる」と言われた時点でも、この「ゴ○ゴ反射」というべきものは密かに機能していた。思い起こして貰いたい。貴教はこう思考している。「俺に協力してくれるというのが、ファン、心理なのか、信者レベルなのか、一人の男として惚れているということなのか、『もしかしたら……』。まあ、使えるものは使っておくべきだろう」
『もしかしたら……』――そう、相手がドッキリカメラの仕掛け人どころかハニートラップの仕掛け人であること可能性も想定し、其れさえも逆に利用してやろうという算段を立てていたのである。それを含めて、自らの老獪さに「嫌な大人だ」と舌の奥に苦い味を覚えたのだ。
ケンのメイド兼看護師にしておそらくは愛人。まさかこの事態を見込んで“先手”を打っていたと果たして断言出来るだろうか? どうやら、ケンこと飛鳥拳士郎はそのお道では知らぬ者のいない大家のようである。貴教が優秀な弁護士を必要とすることとなれば、事前に、“裏”の権力はケンにハニートラップをかけることで其の実真のターゲットである貴教を狙ってくるというのも考えられるではないか? ましてや、“ミ○ドのあの娘”の面影が色濃く、冷え性でしっとりしていておまけに水掻きまである。アンディを想わせる手というのは…。
(そこまで狙って仕組んでいるとしたら何て恐ろしい奴らだ!)
もう既に両手を取り合って抱きしめてしまってはいる。
(カメラはどこだ。カメラは。くそ。最近のカメラなんて高性能小型化で見つけられたもんじゃないぞ!)
ここではたと思った。
(もしかしたら、考えすぎ?)
考えてみたら、“ミ○ドのあの娘”に憧れていたのも、不遇の時代の心の友たるアマガエル(アウラングゼーブ)のことを知っている(愛車の緑のポルシェ九三〇ターボを密かにアウディと呼んでいることを知っている者すら他にいない)のも貴教唯一人なのである。当時は告白はおろかシャイな貴教は友達の誰にも言えやしなかったし、有名になった後のインタビューでもこの甘酸っぱい思い出をマスメディアに明かしたことも一度として無い。
そこまで想うに至り貴教は平静を取り戻した。傍から見ていたらととも取り乱したようには見えなかったであろうが。
(それに若し撮られていたとしても、ハグまでだ。そりゃあ、でっかい乳に顔を埋めちまったかもしれないが。でも、キッスはしてないからセーフ。断じてセーフなのだ)
「もう~。変な人ねえ」
(いざという時には言い逃れる自信はある。この程度ならば。こちとら一体何年芸能界で揉まれてると思っているんだ。でもそんなことを実際にやる、行動に移そうなんて考えちまうのは…。ホントに嫌な大人になったし、業界擦れしちまったもんだよ)
アラフィフで業界歴三十年オーバーなのに、擦れ切っていないおかげで自己嫌悪を覚える貴教であった。
Ⅰ-5残り一話。




