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Ⅰ 4-11

 自己本位的自我が人生に挫折し、決定的な敗北感とともに自己本位的自殺へと至る道程の果てとは、自己の惨めさのみに意識を収斂させ、其れ以外を反省の対象として残しはしない。この悔恨が最期の瞑想の対象とし得るものは、最早内なる虚無と其の帰結である悲哀だけである。最早周囲の全てを彩る――いや、寧ろ色は失われているのか――憂鬱は自分自身の内なる憂鬱と驚く程響き合い魅了するものであろう。其れは自らの悲哀に対する底知れぬ深みに耽溺させずにはいられぬ甘い囁きであり、不治の病なのだ。圧倒的な虚無を前に想いに耽る時、人はその中に引き摺り込まれないではいられまい。何故ならば既に絶望しているのだから。絶望の果ての虚無を無限の名で美化する事のなんと甘美な事か。名は本質を変えぬが、人は其の存在を断つことを快とする――最後にして最大の快楽としか感じられぬのだから、自身という存在の全面放棄というものが嘗ての夢、現在の悲哀に代わる唯一のものとして最果てに在るのは当然であろう。全てを申し分なく充たすものとして。内なる夢想の空虚さの中に消える他はなくなるとも謂えるであろうか。

 だが、今日の貴教はこの圧倒的な誘惑に屈しなかったからこそ在る――

 現実そのものは少なくとも幻想のヴェールによっておおわれていなければ耐え難いものだという訳ではない。悲哀とは事物に内在するものではないのだから。それは世界からおのずと由来するものなどではなく、世界について我々がどの様に思惟しているかに由来している。つまり、我々各人による思惟の所産なのである。我々各人にとっての世界とは正に其れなのである。そして悲哀もまた然り。悲哀を一から十までつくりだすのは自分自身なのだ。しかし、その為には我々の思惟も常軌を逸したものとなっていなければならない。意識は往々にして不幸をつくだすことがあるが、それは意識が専ら病的な発達を示す時に於いてであり、またその固有の本性に逆らって自らを自己目的化してしまう時に於いてである。ここでの記述の主な要素はストア派の精神状態から借りてこようと思えば全くもって可能である。ストア主義も、人間は一人自力で生きていく為には自身にとって外的なものの全てから解脱せねばならぬと説く。しかし、その場合、生というものの理由は失われてしまうのであり、この教説は、結局は自殺という結論を導くこととなる。

 「彼は個人的な欲求を充たすといういう唯一つの課題に没頭する訳であるが、其の充足をより確かなものにする為、敢えて欲求を単純化しさえする。そして、其れ以外何を望んでも無駄であると知悉しているので、其の唯一の目的の実現を阻まれた時には、最早無意味となってしまう生に見切りをつける覚悟をし、其れ以上何も求めようとしない。」――

 エピクロス主義者の自殺とはこういったものである。「敢えて欲求の単純化」を「唯一つ夢の実現への集中」と言い換えれば、其れというのはとりもなおさず……。



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