Ⅰ 4-6
極まれり……。
という感じです……。
大望のメジャーデビュー。しかし、思うに任せない状況が続き、「こんな筈じゃない、こんな筈じゃない」と藻掻いているうちに貴教は自身から、自らの周囲から、生き生きとした活動的な社会は失われてゆき、自らの内に潜む社会的なもの、客観的な根拠さえすっかり失っていってしまった。こうなっては其れは最早空虚な心象の人為的な結合物、或いは些かの反省によってにさえも容易に霧散してしまう一個の幻影にしか過ぎない。則ち、行為と目的と成り得るようなものは跡形も無く消滅してしまっていたのである。ところが、此の社会的人間とは実は文明人に他ならない。社会的人間であることが正に彼の生を価値あるものとしていたのである。当然の帰結として、故に彼の生きる理由も失われることとなる。
つまり、彼等の営むことの出来る唯一の生活(社会的人間としての生活)等というものは現実の中には既にして皆無であり、現実の中にまだ根拠を持つ唯一の生活(物理的人間としての生活)は最早彼等の欲求には応えてはくれないからである。人々は高度な生活によって慣らされてしまっているので、今更子供や動物の甘んじているような生活には満足出来はしない。堪えられはしない。だが、今やこの高度な生活そのものが砂の様に其の手からすり抜け、貴教は途方に暮れている。「努力に値する」というよりも、「最早どの様に、如何に努力しようとも無駄――此れ迄のそうだった様に無に帰する以外にでない」という感覚ーー虚無が貴教の心をとらえている。無力感に心を侵食され尽くされて、この時期の貴教には下宿の暗がりから出て来るだけの気力すら失われていた。
改めて問おう。
人が活動するには何が必要なのか?
人を突き動かすものとは何なのか?
貴教は有り得ない状態にあった。
此の時の貴教には自覚があった。
自分が死というものを異常な迄に恐怖しているという自覚が――
大抵の人間はそうだろうが……。
だが、それでいてそんなものに魅入られてしまっている事を自覚しいている――
貴教は語っている。
「僕は死への恐怖が非常に強く、常にそれと隣り合わせにいるような感じがしています。それは三歳か四歳の頃からあり、未知なる死への恐怖でよく過呼吸になっていました。テレビを見ていると不意に、今日の前にある状況は死を迎えるとどうなるんだろう、という考えがやってくるのです。死とともに消えてしまうなら、じゃあ、今ある目の前の状況は何なんだ。自分が存在したことすら人の記憶から消えてしまうのか。どんどん追い詰められてパニックになり、よく裸足で外に飛び出したりしてました。あまりに怖くてやりきれないから、自分がこの瞬間を生きた証みたいなものを立てたいとガキの頃から思っていたのかもしれません。」
ところが今(当時の)の貴教は違う。
異なった精神状態に成れ果ててしまっている。
それこそ死というものを厭うているという事に関しては、「病的に」とも「猛烈に」と言っていていいのに。それなのにどうしよもなくその向こうに逝きたがっている自分がいるーー
人間なんてそんなもんだと思います……。




